2006年10月01日

書くってなに?

先月、ある友人から、こんな質問を受けました。

書くことを駆り立てるものってなんですか?

わたしはちょっと答えに詰まって、今まで考えていたんだけれど、(ごめんね)
この話は深くなりそうだし、他に創作に意欲を燃やす人々に向けて、
こんなこと考えてるやつがいますよっていうことを見せようと、
ここで返信してみることにしました。(すまんですが)

実をいうとあんまり考えたことがなかった。

単純に、書くことが好きだから、と言えればいいんだけれど、
実はそうでもない。
書くのは好きだが、しゃべるのも相当好きだ。
というか、ブログでうだうだ書いているいろんな話は、
絶対話して伝えて、相手と語った方がおもしろいと思っているので、
こういう言いっぱなし論議になっていることがたまに申し訳ない。

そして、わたしは伝えたいから書いているわけでもない。
単純に、いつどこで誰が誰と何をして〜っていう「いつどこでゲーム」の要素を
伝えたいなら、話しに行く。
話にいけなかったら電話で、電話はいろんな時間的制約もあるから、
メールではっちゃけて伝える。
わたしの伝達手法はそれくらい。

じゃあ、なぜ文章を書いてまとめて一つの作品にしたがるのか。
そもそもなぜ、文章に限らず「作品」を「創作」したがるのか。
つくること、ってなんなのか。

うーん。。。と考えてみたら、一つ思いついた。

要するに、自分のことを知って欲しいんだ、ということ。

わたしは作品には自分の主観が入って然るべきだと思っている。
自分が完全に客観的になりえることは不可能で、
自分が「これをよしとする」という方向で物を作っているならば、
その、「よしとされた」要素は、自分の主観から来たものである。
その反対も然り。

作品にこめられた主観と、見る人の主観が一致したとき、
共感が生まれる。
※ここで言う共感とは、プラスの共感でもマイナスの共感でもいい。
  何かを感じた、ということを意味する。

その共感が発生すると、
制作者は「わたしのことを分かってくれた!」と思い、
鑑賞者は「わたしと同じこと考えている人がいた!」
あるいは「わたしと違う考えの人がいた!」と思う。

両者が今まで満たされたいなかった、思想の交換、と言う現象が発生する。
これは、完全な同意なのか、非同意なのかは関係がない。
同意であれ、非同意であれ、思想のやり取りがなされたことには変わりがない。

わたしは単にそれを感じたいんじゃないかなと思う。
作品のタイプによるけれど、それは思想と思想が行き交った、
ある種コミュニケーションであり、人間的行為だ。
メッセージの投げかけに対する回答。
キャッチボールのようなものだ。

あるアーティストが、かつて自分のアートはコミュニケーションだと言っていた。
その人は作品自体もコミュニケーションを意識しているけれど、
わたしもこの思想には共感している。
彼がわたしの創作状況について聞いてくれ、
さらにずっと前の作品についての感想を述べてくれたとき、
わたしとそのアーティストの間には共感があり、思想の交換があった。
大スランプだったわたしはそれで何かが吹っ切れたような気がした。
後々になって考えてみて、
それは「自分の作品に共感して面白がってくれる人はいるんだ」
という安心感だったのだと感じた。
別に心から同意してくれなくていい。
何かを感じて、何かを言い返してくれる人を求めている。
無視という答えより、否定されたほうのがいい。

そうやって生きていくしかないから。
生きるうえで、人間も動物も、「群れること」なしに生きてはいけない。
群れることを促進するために、人はさまざまなツールを開発した。
最近では群ればっかりで、気持ちが悪くなるくらいだ。
それくらい、現代では群れることを感じていたい人が実は多いんだと思う。
社会に属しているだけで既に群れの中にいるというのに、
その中からより密な群れを探し出そうとする。

わたしはそういったツールを使って生きてはいるけれども、
ツールを失っても死にはしない。
不便さを感じることは多いかもしれないが、
たとえPCやケータイがなくなっても、わたしは人と話し、モノを書くだろう。

群れるために。
人とコミュニケーションをとって共感するために。
共感を生み出す媒介として、の作品。
共感を求めるがゆえの、創作。

そうして生まれたものは、自分自身の分身のようなもの。

書くことは、わたしにとっては、話すことが不可能な時に必要なものだ。
本当は会話から生まれる二人だけの境地というものが、
一番の作品なのかもしれない、とも思う。
誰にも侵されず、ただ二人だけの感性がぶつかりあう世界。
これほど完成された作品はないだろうと思う。
それが普段は出来ないから、(※これは相当なエネルギーを必要とする)
わたしは書くことでそれを解決しようとする。
書いている最中に感じる別の境地を作品に込めて、
読み手の感性とぶつかってみたい。
そして対話をしたいのだ。

感性の世界については、
我がバイブルSWANに描かれていた、
真澄とレオンのダンスシーンに通ずるところがある。
わたしがあの作品で一番好きなところは、
真澄とレオンが二人だけの感性の世界に入り込んで、
ただ無心に踊っているシーンだ。
感じるだけで完成される世界に身をおけることがうらやましかった。
わたしもそういうことをしたいと思った。
今わたしに出来ることは、
自分の感性の世界を作ることで、
ゆくゆくは
それを段階を踏んでだれかと共有していきたいと思っている。

どういう形態になるのかは知らないが、
いずれできるような気がしている。

話は若干それたが、
ここまで考えてみていたる結論としては、
書くことに駆り立てるものは、
感性の世界を共感したいから
ということになる。

合ってるとも合ってないとも言えない。
でも、少なくとも、今はこの思いに引っ張られて、
わたしは片時も考えることをやめない。
もっともっと高い場所を目指して登ろうとしている。

ランニングハイならぬ、
ライティングハイを感じながら、
わたしはこれからも突き進む。

そんな、結論。
(になりました。。。)

Posted by fre9 at 2006年10月01日 01:46
Comments
Post a comment









Remember personal info?