2006年09月09日

夏の終わりの、大さん橋の午後

9月に入ってから、昼の大さん橋に行きました。
特に理由もないんだけど、
なぜかいつも行くのが寒い時期の夕方以降だったから、
暑い時期に行ってみようかなと思ったんです。

そこで感じた、世界の果ての静寂について、書きます。

大きな風もなく、凪の状態の海を前に、わたしは汗だくで歩いていた。
近くでは大方カップルや学生みたいな人たちが固まってくつろいでいて、
楽しそうに談笑している。
または、自分の親くらいの年代の夫婦のような人たちが、
静かに隣り合って座っている。

芝生に座ったり、手すりの前でカメラを構えたりしている。
近くに構える仮設店舗のラジオから聴こえる歌を、歌っている人もいる。

自分にとっての日常を感じるのはそこまでだった。
その仮設店舗を通り過ぎて大さん橋の先端の方に向かうにつれて
音が消えていくのをわたしは感じた。

冬には聴こえた波のちゃぷちゃぷとした音が聞こえない。
聴こえるのは、シーバスのモーターの音がかろうじて小さく唸っているくらい。
しゃべっているはずの男女の声も、
笑っているはずの学生たちの声も、
全てどこかに吸収されてしまったかのように、
微かに遠くで囁かれている程度しか聴こえない。

わたしはふと立ち止まって辺りを見渡す。
わたしの周囲に存在しているはずの人々は、
まるで風景画の中の人間のようにぺったりしていて、
大さん橋に張り付いてしまった、と思えた。

わたしは先端から海とベイブリッジを見る。
波はあるはずなのに、風もあるはずなのに、
大量の海水はしんとしてただ漂っているだけだ。

わたしがかつて聴いたはずの音たちは、
天上の世界に吸い込まれてしまったのか。

音も動きも、最小限に抑えられた空間の中で、
一人運動しているのは、わたし。
まるで、画の中を動く、CGの人間になったような気分だった。

わたしの普段の生活は、音に囲まれている。
テレビの騒音と、ipodで聴くロック、
パソコンをタイプする音、電話の音、人の話し声と叫び声、
お金の音。。。

たまには音のない生活がしたい。
そう思っていた。

でもこのとき感じた、完全に近い「静寂」の世界に、
わたしは落ち着きを感じることはできなかった。
なにかがおかしい。
見えている動き、見えている音が、聴こえない。
人の存在、人の体温を感じる根拠になるはずの、視覚と聴覚が一致しない。
ただ照りつける太陽の暑さばかりが、わたしの体力を奪っていくのを感じた。
そして、不安になった。

こんなに音がないことが、わたしを不安にさせるとは思わなかった。
もしかしたら、音のある暮らしに慣れきってしまって、
もう後戻りができなくなっているのかもしれない。
音があることが、わたしにとっては当たり前のこととして身体が覚えてしまっている。
少しの静寂も、身体が許さなくなってしまっている。
動きあるものは、音を発する。
そういうものだとどこかで思い込んでいる。

わたしは、もう一度、仮設店舗のところまで戻ってみた。
そこでは、陽気なレゲエにのって歌う店主と客が戯れていて、
ドリンク片手に最後の夏を堪能する光景が、動いていた。

わたしの眼に飛び込んでくる人の動きと、
耳に響く音の流れが、一致した。
これが、わたしがいつも見ていた日常だ。
そしてさっきまでの光景は、一体なんだったのか。

いくら考えても結論など出なかった。
おそらく、自然現象の一環で静寂の空間が作り出されていて、
わたしはその中にいただけなのに、
いつもと違う感覚に襲われて、逃げ出してしまった。
そこの場では、きっとわたしも音を発しない動体で、
周囲の風景の一つにすぎなかったのだろうが、
わたしは、自分だけに異質性を感じていた。

本当は周りと大して変わりはしないのに、
自分だけに特殊性を感じるとき、
それは周囲の状況の矛盾に自分も内包されていることに気づいていない時だ。

そもそも矛盾した存在である人間の存在を、論理解明しようとしても、
それは一原理を説明しうる一論理なのであって、
全てを解明できる万能理論にはなりえない。
矛盾した人間が作り上げてきた科学は、
いつか人間の全てを解明してしまう挑戦に立ち向かうのか、それとも違うのか。

如何とも説明し難い現象に遭遇して、
科学が大好きだったわたしはこんな感覚を覚えたのだった。

おわり

※今でも科学は好きです。

Posted by fre9 at 2006年09月09日 23:37
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