これは読まねばならぬ、と思っていた本をついに手にいれ、
猛スピードで読んだ。
坂口安吾
『堕落論』
ほんの短い持論を展開した作品だが、わたしは感激に震えてしまった。
まさにわたしが考えていたことをそのままストレートに書きなぐった作品だった。
そして、安吾と同じ境地に立てたことを、なんとなく嬉しく思ってしまった。
以下、安吾に触発された、極私的堕落論を展開する。
安吾的に言えば、人間は生きている限り堕落していき、最終的に死を迎える。
だが、堕落が導いていく究極的な世界は、死とは限らない。
と、わたしは思う。
究極の世界の中の一つに、死の世界があるとすれば、
自ら死を選ぶということは、究極的な堕落となる。
とはいえ、普通の人間はその完全なる堕落の世界にはたどり着けない。
そんな勇気はないからだ。
それほどまでに、人間の意志というのは、
たとえそれがどんなに強いものだと自分で信じていたとしても、
弱いものなのだ。
それは他の境地においても然り。
堕落の道を突き進むには、並大抵でない勇気と、覚悟がいる。
そして多くの人間は、
沢山の平凡さとちょっぴりの非凡のバランスを取って生きていることからして、
バランスの一切を欠いた完璧な突進は、できない。
今ここで、何をしてもいい、言ってみれば生きるか死ぬかもあなたの自由、
と言われたとする。
そこで、はいそうですか、とすぐに何かの境地に突進できる者は果たしているのか。
人間は常に揺れ動いている生き物で、ひとところにとどまることはない。
地に足をつけてがちがちに固めているのは、
そうでもしなければ流動的な社会をまとめ、管理することができないからだ。
それを理性と表現しておくと、
人間は理性を持ち合わせているがために、自由にはなれないし、
反対に理性があるからこそ、自由を享受できている部分もある。
結局は多くの矛盾を抱えたまま生きている、その全てが人間であり、
白黒つけようだの、がちがちのルールでがんじがらめにしようだの、
そんなことを考えていること自体、人間性を失っている。
それは、機械の世界であり、プログラムの世界であり、人工的な産物の世界である。
そして、全てが整然とし、誰もが納得する行動や道筋を正統とするならば、
それに外れることは異端である。
異端はタブーだ。
そこから考えるに、人間は理性を持つ前に異端として生まれているのであって、
理性を身に着けていく過程で正統を目指し、また正統に縛られて生きていく。
触れることをタブーとされる人の欲(物理的な欲と精神的な欲両方)の世界は、
欲の積み重ねで作り上げられた人工物である正統によって、
オブラートに包まれ、ついには隠されてしまう。
言い換えれば、正統とは仮面を着た欲である。
もちろん、だからといって正統を敵視しているわけではないし(これでも割り切った)
正統を目指すことによって得ることも大きいことも認める。
ただ、やみくもに正統の世界を極め、その価値観しか知らないで生きていると、
自分が実は生きながら堕落に向かっていること、
またその堕落を食い止めるために良心の呵責という名の理性が働いていること、
そういう自分の中の正と負のせめぎあいすら感じないまま、
独り、
耐えなくてもいい孤独に耐えようとしてしまう。
そして耐えることを諦めたとき、
首の皮一枚分は残っていたかもしれない理性が剥がれ落ちて
もはや自力で自分を救うことすらできなくなる。
安吾の考えと、わたしの考えでは、
堕落することは悪いことではない、と思う。
むしろ当然のなりゆきだ。
自分が堕落の道を進んでいることを感じて、
それが嫌ならば正統への道を戻ればいいし、
戻ることすらも嫌ならばそのままいけばいい。
感じているだけでも、そこに理性が働くきっかけとなり、
自分の、自分または他人への良心の呵責の存在に気づく。
その理性をもしも邪魔と感じるなら、
自分の中の動物の勘に従ってみればいいじゃないか。
行き着く先で自分への責めの感情を感じたなら、
そこが自分の堕落精神と理性の着地点だ。
そして、そこからまたスタートし直せばいい。
堕ちたことを責める人は多くても、出直しを責める人は少ないだろう。
人は、堕落の世界を突き進むことを防ぐために、
理性によって構築されたさまざまな規定を適用する。
法律のように明文化されたものもあれば、
暗黙の了解もある。
わたしの好きな、武士道でさえだ。
それらが全て、究極の堕落を見越して創られたものであることを感じるとき、
(その究極さえ越えてしまうこともしばしばだが。)
それを創った人の、人間を見る目というのはすごいと思う。
人が突き進む堕落の境地はさまざまで、予測もつかない。
それをコントロールすることの難しさたるや、言及するまでもないことだ。
でも一つ言えることがある。
ここまで堕落だの理性だのいろいろ書いてきて、
いかにも突き放した言い方をしているが、
本当は、
『人間のことは人間にしか分からない』
ということなのである。
人間だからこそ、弱さから引きずり込まれる堕落の道を理解できるのであり、
人間だからこそ、そのどん底から救うことができるのだ。
『堕落論』とは、実は人間愛にあふれた、ヒューマニズム論である。
それが、安吾の『堕落論』を読んだ後の考察の結論だ。
おわり。