2006年09月02日

考察『東電OL殺人事件』第二部

自由意思で自分の動物性、野獣性を転がしても良い状況を得た場合に、
果たしてどれだけの人が何のルールにも、しがらみにも縛られず、
自分を解放することができるだろうか。

ゼロとは言わないが極めて少ないとわたしは思う。

わたしも、きっと、無理。
ある程度まではできるのかもしれないが、
そのある程度まで行き着くのがそもそも大変だ。

Wの場合、そのきっかけが何であれ、
いずれにしてもどこかの街に立ったんだろうと思う。
一日4人の客を取るまで帰らなかったという彼女は、
自分の欲の解放の仕方が分からず、
結局は自分で作ったシステムの中に、自分を組み込むしかなかった。
これは別に特別なことではない。
たとえば、自分の武勇伝を披露したがる男がいるとして、
何人の大台に乗りました、とか、毎週何曜日はこの人で、とか
(いちいちわたしに言わんでもいいのに、とわたしは思ったのだが、、、)
そういう発言の中にも、実はシステムが働いている。
彼は、知らないうちに自分で自分をシステム化してしまっている。
そうすることでしか安心感を持てない、
一つ一つの大台をクリアすることで自分はレベルアップしたような錯覚を味わえる。

そう、錯覚なのだ。

錯覚でもいいから、
常にレベルアップしていたい。
そもそもレベルアップとはどういうことかも分かっていない状況なのに、
常に現状のままではいけない、現状を変えなければならない、と思う人たちが、
自分だけのシステムを作り上げ、その中で生き、満足感を得ている。


それはWだけではない。
容疑者とされたネパール人も同じだった。
他の人にとっては、はっきり言ってどうでもいい自分だけのルール(システム)に
これでもかというぐらいきっちりと則って生きていて、
ルールの延長線上にある目的を達成することで、初めて満足感を得る。
いや、得たような気持ちになる。

本の中では、二人は絶対に出会うことのなかった者同士だと書かれているが、
わたしはいずれ出会ったと思う。
それは両者が、自分で作った型に自分をはめこむことによって
生の満足感を得るタイプの人間であるからだ。

二つのシステムがある地点で交差して、素晴らしいプログラムが完成するのか、
それともエラーになってしまうのか。
この事件は、エラーになってしまったんだと思う。
そして、こういう論理で考えると、
自分だけのシステムに甘んじるということこそが、すなわち堕落であると考えられる。

本で引用されていた坂口安吾の堕落論。
「徹底的に堕落することこそが、真の堕落である」
という引用文に照らし合わせてみれば、
徹底的に堕落することというのは、
徹底的に自分あるいは誰かの決めたシステムに身を任せ、
偶発性への適応能力をなくした状態、と言える。

それは、岡本太郎的に言えば、
「必死に生きていない」状況だろうと思う。

わたしはどうか。

ある意味システムに身を任せてさえいれば生きていけた頃もあるし、
今は確実にそういう状況から逃げ出そうと考えているようにも思える。
個人的には、システムになど身を任せない、偶然性、偶発的な事象に直面し、
あれこれ考えて、もがいて、生きていく方が、好きだ。
それは自分がまず動物として、生命の危機があるということ、
それから人間として、精神的限界があるということ、
その二つを感じる瞬間は、まさにシステム化前のカオスであって、
「必死に生きる」ことでしか前に進めないからだ。

自分がヒト科として生きるにあたって、
今は本当にいろいろなことを考えなければならない。
考える必要がある。
自分の中の混沌とした動物的本能と、システム化された理性と直面することは、
まるで一筋縄ではいかなくて、
見なきゃ良かった、と思うほどの、
どうしようもない、情報量を前に、わたしは呆然とする時もある。

でも、わたしは生きている。

本当はWも、これと全く一緒ではなくとも、
似たようなことは感じてはいたんじゃないか。
直接知らない人だけど、わたしにはそう思えてならない。

今まで知らなかった、見ようともしなかった、自分の中の相対するものの存在は、
それまで自分が考えていた自分の存在意義を脅かす。
Wはその二項対立の狭間で、
本当の自分はどちらなのか、定義づけたかったのではないか。

本当の自分など、二項対立で語れるものではないのに。
二項のうちのある要素とある要素が混ざって、初めて一つの人格。
また別の要素の組み合わせが、あるコミュニティでも自分の位置づけ。
そうやって生きるいろいろな自分の集合体が、「自分」なのであって、
わざわざどちらかに決めなきゃいけないわけじゃない。
Wはどうしてもその辺りの白黒を付けたかった、
付けざるを得なかったのだ。
なぜなら、自分の内面のケモノの側面を知ってしまったから。
彼女は、自分と言うケモノと真っ向から対立して、闘おうとして、
死んでしまった。
それは、多くのほかの人間たちも、
薄々感じてはいたけれど認識はしていなかった、あるいはすることを拒んだ、
自己同士の対立だった。

「自己」というものが、理性を持ち、得体の知れないシステムを作る。
「自己」を持つことで、その人のキャラクターが創られる。

これは当たり前のことのようで、実は当たり前のことではない。
言い換える。
大脳を持つ人間としては、当たり前だけれども、
生きている生命体としては、当たり前とは逆行した運動、である。


至極個人的な見解を述べてきたが、
この本は、これまで書いてきたような非常に真面目なトーンで、
ある一人の女性が死んだ事件を、論理的に解明したものである。

裁判のシーンが結構あるため、
合理的に可能、だとか、
〜〜していないとは言い難い、だとか、
まどろっこしい表現も多いのだが、
全体的なテーマは、その事件を論理的に位置づけてみる試みであり、
実は最後まで結論など出ていない。
このエントリーのように、
一人のジャーナリストが勝手に考えて、勝手に感じた見解を、
「証拠」という、見る角度が違えば意味づけが変わってしまう浮遊体を元に、
論理づけた文章である。

ある視点から見た一つの事象を、
またある人がある視点から解明しようと試みる。

それは議論とは違って化学反応は起こせないけれども、
内的な小爆発くらいにはなりそうだ。

最後に、この本を紹介してくれたIさんにお礼を言いたいと思っていることと、
ここまで自分がバカ真面目に考えたことは久しぶりで、
なんとなく楽しかったことを付け加え、
終わりにする。

Posted by fre9 at 2006年09月02日 01:02
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