人間は、本能的に異質なものを拒否する性質を持っている。
自分の体内に入れたことのない、異質な物質、
自分の体験したことのない、異質な世界、
自分が出会ったことのない、異質な人間・・・
異質性と同化していくには、
まず、その異質なものがどう成り立っているかを理解することが必要になる。
完全に理解できなくても、理解しようという思いで「見」る必要がある。
完全に同化する必要なんてないけれど、
それが異質であって、異質さが何から成り立っているかを理解する過程は、
すなわちコミュニケーションである。
対話は、異質性を同化に一歩一歩近づけるものであるはずだ。
いくら違いがありすぎるからといって、それを拒絶していいものか。
どんなに対話によって理解してもらおうとしても、
どんなにSOSを発しても、
異質を受け入れない人には、そのメッセージが全く届かない。
いく度、わたしはその人に伝えようとしたことか。
それなのに、その人はわたしの声に耳を貸そうともしなかった。
平気な顔をして、わたしが傷つくような言葉を何度も浴びせかけた。
それはわたしだって同じなのかもしれないが、
少なくともわたしはその人の持つ価値観は理解しているつもりだし、
それだからこそ、相違点を伝えようと努力してきたつもりだ。
わたしの努力が足りなかったのか?
わたしは何か欠けていたのか?
わたしの発言や行動を、真っ向から否定し拒絶したまま、
なぜそうしたのかの関心も持とうとしないその人は、一体どういうつもりなのか?
その人は、
わたしの目先の小さな変化にだけ目を囚われて、
大きく変化しようとしていることさえ、見据えることができない。
何年も努力してきたのに。
お互いのためにするべきだと思って、
正直に話せることは話してきたのに。
悔しくて仕方がない。
一番身近な人間は、一番の理解者になんか、なれないんじゃないかとさえ思う。
それくらい、長い月日を経て相手を見る目は盲目になり、
一つの定義以外の価値観を、共有できなくなってしまうのだ。
そうして目立つお互いの異質さの認識が高まれば高まるほど、
同化への道は遠のいて、
ついには、そんなものをかつて持っていたことさえも忘れてしまうんだろう。
人間って、かなしい。
だから、脳なんて余計なもの持ちたくなくなってしまう。
もし来世というものがあるんだったら、わたしは蟻になりたい。