人間は、本能的に異質なものを拒否する性質を持っている。
自分の体内に入れたことのない、異質な物質、
自分の体験したことのない、異質な世界、
自分が出会ったことのない、異質な人間・・・
異質性と同化していくには、
まず、その異質なものがどう成り立っているかを理解することが必要になる。
完全に理解できなくても、理解しようという思いで「見」る必要がある。
完全に同化する必要なんてないけれど、
それが異質であって、異質さが何から成り立っているかを理解する過程は、
すなわちコミュニケーションである。
対話は、異質性を同化に一歩一歩近づけるものであるはずだ。
いくら違いがありすぎるからといって、それを拒絶していいものか。
どんなに対話によって理解してもらおうとしても、
どんなにSOSを発しても、
異質を受け入れない人には、そのメッセージが全く届かない。
いく度、わたしはその人に伝えようとしたことか。
それなのに、その人はわたしの声に耳を貸そうともしなかった。
平気な顔をして、わたしが傷つくような言葉を何度も浴びせかけた。
それはわたしだって同じなのかもしれないが、
少なくともわたしはその人の持つ価値観は理解しているつもりだし、
それだからこそ、相違点を伝えようと努力してきたつもりだ。
わたしの努力が足りなかったのか?
わたしは何か欠けていたのか?
わたしの発言や行動を、真っ向から否定し拒絶したまま、
なぜそうしたのかの関心も持とうとしないその人は、一体どういうつもりなのか?
その人は、
わたしの目先の小さな変化にだけ目を囚われて、
大きく変化しようとしていることさえ、見据えることができない。
何年も努力してきたのに。
お互いのためにするべきだと思って、
正直に話せることは話してきたのに。
悔しくて仕方がない。
一番身近な人間は、一番の理解者になんか、なれないんじゃないかとさえ思う。
それくらい、長い月日を経て相手を見る目は盲目になり、
一つの定義以外の価値観を、共有できなくなってしまうのだ。
そうして目立つお互いの異質さの認識が高まれば高まるほど、
同化への道は遠のいて、
ついには、そんなものをかつて持っていたことさえも忘れてしまうんだろう。
人間って、かなしい。
だから、脳なんて余計なもの持ちたくなくなってしまう。
もし来世というものがあるんだったら、わたしは蟻になりたい。
やわらかい「 」
と聞いて、何を思い浮かべるかで人間を定義づけしてみようという試みです。
1.下ネタを思い浮かべた人
たぶん、ノーマルでしょうね。
2.時計、を思い浮かべた人
わたしと気が合うでしょうね。
3.チョコレート、を思い浮かべた人
あなたには透視能力が備わっているかもしれませんね。
まぁ、ここでの正解は3番です。
実はたった今、
やわらかくってぐんにゃりしてるチョコレートを口にしてしまったのです。
なんだか、別の食べ物、というより食べ物とすら思えない感触がした。
感想:冷蔵庫に入れるべきだった・・・という激しい後悔
夜中に作業しててお腹が空いたとしても、
溶けすぎてどろどろになってから再度固まった、ゴムのような感触のチョコレートは、
色も味も感触も、不気味です。
気をつけましょう。(自分が、ね。)
今日めでたくオケ復帰を果たしたわたしでありますが、
一つ懸念材料が。
今回のお隣のおじさま。
相当観察魔だということなんです。
相当眼がいいね。
なにせ、海洋生物を研究している人ですからね。
今日、初見でベルリオーズを弾かなきゃならんかったため、
わたしは最低限のポジション移動(指と手の位置移動)しかしなかった。
ファーストポジション、サードポジション。
これ以外はあとはテキトーにやっていたわけです。
初めてなんだから、いいよね。と思っていた。
いつもは、これで本番前に追い込めばなんとかなった。
本当だ。
隣のおじさまたちは、
「弾きやすいフィンガリング(運指法)でいいよ。めんどいし。」
っていうスタンスだったからだ。
が、、、
今回のおじさまは、違う。
今日の練習後、おじさまはのたまった。
「fre9さんは、セカンドポジション苦手なんですか?ぜんぜん使ってなかったね」
Oops!!
って言う感じ。。。
見てたのか。
見られてたのか。
しっかりチェックされてたのか。。。
これは、やばい。
ツワモノだ。
おじさまは、自分で弾きながらわたしの弾き方をチェックしていたわけです。
わたしの師匠の代わりに?(冗談じゃないっす)
練習後、しっとりとした言い方で、
ポジション移動の大切さについて説かれました。
分かるんだけど、、、言えない。。。
とりあえず、はい、と返事してみました。
これから、このおじさまにしごかれるんでしょうか。
そんな予感がします。
毎回観察されるのは困る。
おじさん、時々観察休んでいいよ。疲れるでしょう??
と言いたい今日この頃。
復活しました。
みんな元気だった。
指揮者のおじさまと、師匠。
そして素敵なおじさま、おばさまたち。
おかえりと言ってくれる人がいることが、
こんなに嬉しいことだとは思いませんでした。
有難いことなんですね。
次の演目は、
ベルリオーズ『幻想交響曲』
モーツァルト『フルート協奏曲』
モーツァルトはNHK交響楽団から有名なフルート奏者を呼びます。
モーツァルトは人数の関係で板に上がれないかもしれないけれど、
(モーツァルト嫌いだからそのほうがいいですが)
ベルリオーズに挑戦できるのがわたしは嬉しい。
一度は挑んでみたかった。
今度も、CDを借りて、曲の背景から勉強しつつ、
本番を目指そうと思います。
やったー!!!
復帰できて嬉しい!!!
だと思うのです。
わたしは一年に一回くらい、こういう時期があります。
そもそもね、
自分が電話かけた時に相手がOKがどうかは分からない
っていう前提でかけてもらわなきゃ、困るんです。
世の中には便利なケータイっていうものがあるから、
よし、今すぐかけちゃえ、って
普通に父みたいな中年のおやじまでもが思い始め、
全ての生活ペースが速まっている。
それで常に気にしてなきゃならない強迫観念。
自分たちで自分たちの首を絞めている。
電話を持ち歩ける時代になったとしても、
かける相手の状況を考えることが人間として当たり前であって、
たとえ出なかったとしても独りよがりになるのは間違ってる。
もし相手が都合が悪そうだったら、気遣う。
そういう配慮があってもいいだろ!!!
と一年に一回ぐらい、わたしはぶちきれるわけです。
それで、電源を切ってしまいます。
もう電源オフ期は過ぎて元に戻しましたが。。
たまたまどんなものだろうとDLしてみた、モバイルメッセンジャー。
それが、サインアウトできなくなって、
なんと旅先においても、ぼこぼこメールが来た
(モバイルの場合は、メールでお知らせ機能があるらしい)
話した相手がたまたま気心の知れた人たちだったから良かったものの、
これで仕事関係の人がばしばしメッセージ送ってきたら、
相当きもいな、と思いながらモバイル版を体験し、
やっとのことで見つけたログアウト方法で、完全シャットアウトした。
モバイルやネットの世界では常に親しい友人たちがいるが、
リアルではなかなか時間が合わなくて、
結局サイバーな世界でコミュニケーションを取るしかない。
それだから余計につながりを求めたくなるんだろうけども、
わたしは時々そんな世界から逃げたくなる。
サイバーワールドは嫌いじゃないけど、ずっといたくはない。
時々、一人っきりになりたい。
山籠りのように、完全に一人だけで思考をめぐらしたい。
というわたしの状況を知る由もないのは分かってるけど、
携帯電話で居留守使うともの凄く怒られるのは、なぜだ??(not仕事です)
家電話ではしょっちゅうやるでしょう。
てんぷら揚げてる、まではいかなくても、
手が離せないから後でいいや、っていうこと、よくあるはず。
それは携帯ではやっちゃいけないことだったらしい。
そんなわけで、
ケータイ嫌悪期に入ってしまったのでした。
注:とはいえ、携帯ないともはや生きていけませんが。。。
いろいろなものを吹っ切った心境です。
いろいろと胸につかえていたものが、
少しずつ融けていってくれているのが分かります。
この8月は激動でした。
組織にいるということは、便利で守られている反面、
不条理なことも享受しなければならない。
その現実を受け入れるのは到底困難な状況に置かれていて、
自分の気持ちのやり場がありませんでした。
わたしが会社に入った目的は?
わたしがやりたかったことは?
わたしはなぜ内定をもらえたのか?
わたしはどう生きたいのか?
詳しくは書けないけれど、
わたしはある意味、行き場を失った。
Iさんがある日わたしに言ったように、
希望を持っていた、かつてわたしが思い描いていた将来は、
今はここにはありません。
今の状況で手に入れることはできません。
手に入れるには、もう一度再出発をするしかないのです。
その現実は、弱っちいわたしには重すぎて、
直視できませんでした。
いや、直視することが怖かった。
放心状態のわたしに、ある日同期が言った。
「あんなことがあったけど、大丈夫なの?」
その言葉で、わたしは自分が大丈夫じゃないことを初めて実感した。
それまでは、一体何が起こっているのか理解したくない本能が働いて、
脳内での情報処理能力は皆無。
棚上げ状態だったのです。
それから後、わたしはかつてないくらいの大混乱期に突入しました。
社会というところに出るにあたって、誰かを信じていたかったけれど、
もう誰の言うことも信用できない。
相当酷い人間不信に陥りました。
元々人間不信気味なところがあったのに、
余計に自分のことしか考えられなくなってきて、どうしようもなくなった。
でも結局、判断するのは自分なんだから、
今の状況をどうこう言うことは、過去の自分を否定することになるんじゃないか?
よく自分に言い聞かせることばとして、
「自分で自分を信じてあげなくて、誰が信じてくれるんだ」
というものがあるのですが、
これはまさにそうで、自分がかつての自分の判断や予見を全否定してしまったら、
今生きている自分の存在自体を全否定することにもつながるわけで、
それはもう救いようがない。
だから、わたしは信じる。
過去の自分も、現在の自分も、将来の自分も、信じる。
そしてそのために、現実と自分の人間としての醜さや汚さも全て受け入れる。
やっと、直視できるようになった現状と、自分の本当の姿は、
目を覆っても覆っても、なお反吐が出そうなくらい気味が悪い。
初めてまともに直視した自分の腹の中は、
欲と無謀な野望と堕落に満ち満ちていて、
これがわたしが本当に考えていたことだったのか、
わたしはこんなにも醜いものを持っていたのか、
と到底信じられないくらい、どろどろとしたマグマを抱えていた。
それに気づかせてくれたのは、
実は得意先の名物の担当者で、
わたしの周りでは非常に評判が悪い人だった。
怒り心頭で電話をかけてきたその人は、わたしに言った。
「あなたはこれを御社のベストな提案として送ってきたわけですよね?」
わたしは、はい、とは言えなかった。
到底言えるような代物じゃなかった。
そもそも、はい、などと言うつもりもないほど最悪の態度をとっていた。
だって、ぶっちゃけやる気ゼロで適当に作ったものだったから。
わたしは適当さをごまかす術はなぜか得意で、
ピンチになってもそれで乗り越えてきたから、大丈夫だと思っていたんです。
でも、見抜く人は見抜く。
わたしの過去の生き方を、見抜く人は見抜くんです。
当たり前です。
素直に失礼を働いたことを自覚してます。
あのとき、わたしはその人のことをプロだと思いました。
どんなに言い方のきつい人であっても、
どんなに癖のある人であっても、
その人はプロとして、根性が曲がった新人の奥底を見抜き、
腹を立て、
プロとして責任を取らせようとしたのです。
あの時、
はい、という言葉が言えない自分を目の当たりにしたとき、
わたしは、自分を取り巻く全ての辛い現実から逃げようとしている、
いや現実を受け入れようとすらしていない、
根性なしの自分を見ました。
情けなくなりました。
いろいろなことに手を伸ばし、
それはわたしの趣味であり生きる道でもあったはずなのに、
いつしかそれは精神的逃げ場となり、
最終的に責任回避の逃げ場にまでなってしまっていた。
相当ショックで、思いっきり大泣きさせてもらいました。
泣いても解決しないのは分かっていたけれど、
憑き物を落とすかのように涙を流すことで、
なんとか消化してしまいたいと思っていたのです。
仕事とは別にあるわたしの生きる場所が、
単なる精神的逃げ場であるならいい。
それは大いにあるべきだと思う。
でも、それを言い訳に使ってはいけない。
たとえばそれは恋愛関係でも同じ。
知らないうちに彼氏に依存して、自分を見失った結果、
多くの物を失ってきたじゃないか。
人間は弱いから、精神的に頼れる人や物に依存したがる。
そのほうが自分と闘わなくて済むし、楽だから。
でも、それを言い訳にしてしまうほど自分から責任感を引き離してしまったら、
結局残るものはなにもないのだ。
我が敬愛する岡本太郎はこう言った。
「道に迷ったら、いばらの道を進め。
徹底的に自分と社会と闘うことで、はじめて人間として生きていることを実感できる」
生きている実感は、極限状態にならなければ感じられなくなってきた現代において、
肉体的にではなく、
精神的に苦しみ、悩み抜き、もがくことで、生きる実感を得る。
わたしはいっそのこと人間から脳をなくしてしまって動物でいられればいいのに、
とさえ思っていた時期もある。
それくらい、自分が本当に生きているのか死んでいるのか、
生きて何をしているのか、感じることなく、感じる必要性もないまま、
日常は過ぎていくことに、虚脱感を覚えていた。
岡本太郎のいう、精神的いばらの道というのは、
実は肉体的いばらの道よりもはるかにハードルが高い。
肉体的いばらの道は、もし致命傷を受けたならそれは死を意味し、
そこで闘いは終わってしまう。
しかし、精神的いばらの道というのは、
精神的に負けたとしても肉体は生きているわけであり、
焦燥感にさいなまれたまま、死ぬこともできず、
それまでの苦しみの倍以上の重荷を背負うこととなる。
敗北後に自分にのしかかるものを背負ったまま、
闘いは肉体が滅びるまで終わってくれない。
まるでギリシャ神話のアトラスである。
アトラスは石に変わるまでに一体何を考えたのだろうか。
わたしは今精神的いばらの道を歩もうとしていて、
それは本当に本気で自分と闘わないと、
もはや崖から落っこちて二度と這い上がれないくらいの位置にいると思う。
愛読書の少女漫画「SWAN」で聖真澄が、
現実から逃げるために難聴になる場面と同じかもしれない。
何も肩肘張って闘うというのではない。
現実から逃げない。
自分を信じてあげる。
それから人のことも信じる。
これを徹底していくことが、時間はかかるけれど近道なんだと思う。
いろいろな細かいことの再出発は決めかねるが、
わたし自身の生き方として、再出発は望めると思う。
何よりもわたしの現在と将来を信じてくれた人と再会し、
何も言わないけれどわたしのことをそっと見守ってくれる人たちが
わたしの周りにいるんだという、この環境を、
大切にし感謝をしつつ、再生していきたいと思います。
同じような悩みを持っているだろう友人に向けて、
わたしが思っていることを長々と文字に起こしてみました。
おわり。
バイオリンの練習をしました。
練習っていうか、指馴らしというか、なんというか。。。
なんと、半年間も弾いていなかったので、
自分でも指の位置とか弓の動かし方とか忘れてたらどうしよう、
なんて心配で仕方がなかったのだが、
何とか大丈夫だった。
とはいえ、音程は非常に怪しく、
始めの15分くらいは指の動きが覚束ない。
音階を弾いているはずなのに、なんだか違うものに聴こえる。
気持ちが悪い。
そこで、メロディーのある、バッハの曲を弾いてみることにした。
少々難しい曲だったのだが、練習曲としては最適の曲。
昔を思い出して暗譜で弾ききったら、
勘がだいぶ戻ってきた。
ビブラートやトリルの感覚も戻ってきた。
よかったよかった。
でも、30分くらいで体力的に疲れてしまったので、
今日は無理せず終了。
来週のオケ復帰日までには、高音部分の音階を思い出しておいて、
「もちろん練習してくれてたわよね♪」
っていう師匠の言葉に、
「ええ、もちろん♪」
と胸を張って答えたいと思う次第でございます。
(どうせ計2日間、実質2時間の練習ですけど、なにか?笑)
無事帰還したのは昨日の夜遅くの話だったのですが。。
帰りの高速道路が嵐で、本当に恐怖で、
精神的にまいるほど怖かったからなのか、
ものすごい疲労感でいっぱいだった。
今日はのうのうと過ごしました。
今回の旅は、数年ぶりの家族旅行だったわけですが、
今まで散々親不孝をしてきた(現在も、という疑惑もあるが・・・)わたしは、
某コンテストでもらった賞金をそのまま提供し、
インターネットでお宿も予約し、
移動中の、ナビゲーションもがんばりました。
ちょっとは親孝行したかなと、自画自賛してみます。
カーナビのついていない我が家の車は、
運転手(父)がわりと方向を考えずに運転するため、
よく迷います。
で、わたしが後ろから、突っつくのです。
「次の信号を左折、それから3番目の交差点を右折!」
みたいな。
車はもはや3年間運転しないまま免許の更新をしてしまったが、
地図だけは読める。
地理の成績は悪かったけど、地図を読むことと方向感覚には、
若干人より自信がある。
今回も、まず関越自動車道にのるために練馬インターまで向かう途中、
早速迷った。
環八で、おろおろしだした我がfre9父。。。
わたしは東京地方の地図を開いて、必死に現時点を探し、
インターチェンジまでの道筋を解読したのでした。
そうやって地図を見ていたら、おや、と気がついた。
見覚えのある地名がずらずらずら・・・
わたしは思いました。
(この住所、、、っていうか、この町名は、
もしや、某友人の住んでいるところに限りなく近いんでは??)
実際本当に限りなく近い場所にいたらしいんですが、
わたしは右に行けと言ってるのに、左に行こうとする父を必死に説得し、
無事に高速道路まで向かわせるのに必死で、
「どうよ?」っていうメールを送るどころじゃありませんでした。
のれて良かったね、高速道路。
今回の旅は、家族旅行の意味合いもあったけれど、
わたし自身、いろいろ考えたいのもあって、
一人でぼーっと考え事をしていることもありました。
8月1日の政変(っていうと聴こえはいいな)で、
自分が一体何がしたかったのかよく分からなくなってしまったのもあって、
自分はどういうものに幸せを感じるんだろうとか、
何に怒りを感じて、何に失望しているかとか、
ぼんやりいろんなものを見てみることにしていた。
ナウィンさんと話した内容や、
ちっちゃい子たちのかわいらしいパレード、
隙間だらけだけど真っ白い歯をいっぱい見せて笑う農家のおじさん、
隠れ家のような宿でバイトとして働く学生みたいな仲居さん、
慣れない手つきで普段しないような綺麗な梱包を一生懸命してくれた店員さん、
この人たちの表情はみんな本物に思えた。
濃淡がくっきりと現れた東山魁夷の画のような稜線や、
ひたすら続くたんぼを見たら、
日本って実は広かった、ということを実感したし、
こういう自然の中に一人ぽっちで身を置いてぼんやり眺めていることでさえも、
嘘物や作り物の中に生きる普段の生活よりずっと本物なんじゃないかとさえ思った。
当たり前だ。
自然の中にいるんだから。
結局、モノの本物の姿というのは自分の眼や耳、肌で体感しないことには、
分からない。
想像の世界で思いを巡らしたとしても、
それは創られたものであって、本物の姿に触れたことにはならない。
それを疑似体験させることをわたしは今やっているんだ。
疑似体験自体は良いと思うし、わたしも嫌いじゃないし、
むしろその世界に浸っているんだと思うけれど、
少しダイレクトな体験から離れすぎた。
わたしの思考を伝える媒介として何かを挟むことをしすぎて、
伝わらないことや上手に伝えられないこと、
そして周囲の環境からも
時間と手間のかかる直接的な情報発信と受信を簡略化することを求められ、
直接対面の過程よりも、ダイレクトな結果を重要視することに慣れてきて、
それを人間関係にまで落とし込みそうになっていたような気がする。
人間の五感の一つ以下のコミュニケーションしかしない毎日が続くと、
こうも疲れるのかと思った。
そういう理由もあって、これからわたしは色んな場所に手を出し足を伸ばし、
もっと色んな人に直接出会って、直接話して、直接何かを感じたい。
間接的な何かが入るとそれはもはやそれそのものの姿ではない。
もちろん世の中から間接的な表現や間接的なコミュニケーションを排除したら
成り立たなくなることも分かっているし、
必要なことも分かっているけれど、
必要以上に間接的にはなりたくないと今は思っている。
結局、ずっと考え続けて結論は出なかったのだが、
自分を客観視した上で言えることは、
今の自分がすべきことは、
人を信じようと努力することと、
人や物事を自分の眼でしっかり見て、聞いて話す努力をすること、
これらに他ならないのかなと思う。
かなり大変なことだけど、
今が一番大事なことは分かってる。
ゆっくり考えてゆっくり進んだって、誰も文句を言う人はいないから、
きっと自分は良い方向に進んでいくんだと、自分で自分を信じてあげようと思う。
ちなみに(その1)
この隣にあるドラッグストアの名前は、ドラッグストアマックス
ちなみに(その2)
この周りは一面たんぼです。
これから燕三条に向かいます。
素敵な耳かきは見つかるかな。。
Marie*fre9

横浜トリエンナーレの時の壁画もありました。
両親いわく、似てる♪らしいです。
ナウィンさん、私の創作について聞いてくれました。覚えててくれました。
本当に嬉しかった。
最近、表現の意義についてまで考え始めてる私としては、もしかしたらこういうことなのかもしれないな、と感じさせられた。
また見せられるものを作るために、やりたいからやるんだ、と自信を持って言えるように、見渡す限りのたんぼを眺めながら考えたい。
ただ今岩室温泉目指してたんぼの中を突っ切り中。
Marie*fre9
近くにある長寿橋を訪問した記念に造られたそうです。
ちなみに私の手はきんさんと同じサイズでした・・・
自分の手がちっちゃいことを自覚。
Marie*fre9

だるま弁当
を食しました。
今、高崎です。
横川SAなのに、釜飯食べらんかった。
峠の釜飯は上り車線じゃないと売ってなかったとです(ただ今下り中)。。悔涙
Marie*fre9

今週は再会ウィークで、
実は火曜日、半日休暇をとって、横浜で大親友と再会していた。
ひさびさに見た彼女の姿は、
筋肉がついて引き締まって一回り小っちゃく見えました。
彼女とゆっくり過ごせるのはこの日を逃したらあと1年以上後。
隣の県で不定期な休日を取りながら働くため、
会う時間は取れなそうな気がしていた。
だから、夏休みに一回は再会しておきたくて、
でも彼女の都合のつく日が平日だった。
わたしはそれとなく、半日休暇を申請してみたらOKが出たわけです。
まぁもちろん事由は、私用のため、ですけれど。
彼女は勉強用にipod nanoを買い、
わたしの行きつけのネットカフェで早速ダウンロードを試す。
なぜか戸塚店にはiTunes入っているのに、横浜店には入っていなかったため、
店員さんに半ば強引にアドミンでログインさせ、インストール権限をゲットした。
(なんという客だ・・・)
ポッドキャストをダウンロードしようとしたら、
nanoには動画入らないことを忘れて、
必死にNational Geographicの動画コンテンツを入れようとして玉砕。
家に帰ってから気づいた。
でも結局宝塚の曲が入って無事にネットカフェを後にできたのは、よかった。
あれで入ってなかったらわたしはもうあそこには行けなかったでしょう。笑
思いっきり話して、思いっきり食べて、思いっきり買い物して、
思いっきり笑いました。
こんな思いっきりがいっぱいできる友達を持てたことと、
どれだけの間離れててもすぐに昔に戻れる間柄、
そしてそれを楽しめる時間。
全ての有難さをわたしは感じました。
二人とも同じように試練を抱えてる。
時々電話で話すと思うけれど、
また再会したときには、胸を張っていられるように、
わたしはがんばろうと、約束した。
もうずいぶん前からこの宣言していますが、
ついに今週末から向かいます。
ナウィンさんに
「観に行くから、何時からイベント始めるのか教えて♪」
的なメールを送ったら、
「午後2時からパレードやるヨ。あと、横浜トリエンナーレの時の壁画飾ってるヨ。
とはいえ、今回の展示とはなんら関係ないんだけどねw」
的なお返事が返ってきました。
意訳しまくりですが。。
本当はもっと丁寧な言い回ししてますけども。
Can you〜?とかね。
というわけで、わたしは20日、十日町におります。
ナウィンさんがカレーを作りに行ってしまわなければ、
めでたく再会できる予定です。
数年ぶりの家族旅行の行き先を無理やり十日町にしてもらったので、
(父と母よ、ありがとう)
むしろ再会できなきゃ困ります。
滞在時間は短いと思うけれど、うろうろと探検してこようと思います。
楽しみだー。
あー、早く明日の仕事を片付けてしまいたい。
世の中はお盆休みですが、
わたし、仕事してました。
上司と先輩がお休みで人が1/3くらい いないオフィス。
しかも停電の影響でなんだか暑い気がする・・・
わたしはそんな中、
「わたしはお仕事大好きだから休みなんか取りません」
なんてのたまってくれちゃった得意先の人と、ひたすらメールと電話のやりとり。
そして、どこから手をつけたら早く終わるのか分からない、膨大な資料作りの山。
がんばりました。
おかげでお昼がまともに食べられんかった。
おかげでおやつにカッパえびせん買って食べちゃった。
韓国海苔風味。
おいしかったなぁ。
ようやく目途がついたところで家路につく。
戸塚に着いたら、ご飯も食べずにTSUTAYAへ行って、
念願のSteely Danを借りる。
Showbiz kidsを聴きたかった。
ipod活躍中です。
深夜営業もするようになった、我が戸塚のTSUTAYA、えらい。。
ありがとう、バイトのみなさんたち。
わたし、癒された。。
でも今日は言わば保護者が二人もいないような日だったのに、
何事もなくすんなり一日が終わって、よかったです。
今日は何が嬉しかったかというと、
やっと、得意先の人がわたしを宛名にメールを出してくれるようになったこと。
今まではわたしが宛名ちゃんと書いてるのに、
わたしに返信くれなくて上司に返信が行ってました。
普通にスルーされてました。
哀しいね。。。
薄々分かっていたけれど、これはわざと、だったわけです。
つまり、ちゃんと仕事をやるヤツだと思えるまではあんたにはメール書きませんよ、
っていう意思の表れ。
それは誰の意思かというのはわかっていたから、
最初は、はぁ?って思ったけれど、
絶対にわたしの名前宛てでメール書かせてやる!
と思ったら、ふつふつとひた隠しにしていた闘志が燃えてきた。
とりあえずきっちり最後までやろうと努力してます的な姿勢を見せようと
ちょっとがんばってみた。
いや、中身も真剣にやりましたけど。
今朝、わたし宛にメールが来てて、
先週までのどす黒い想いが少しは浄化されたようでした。
少しは認めてくれた、というだけでも、今のわたしには重要な出来事です。
わたしは考えるのが好きなのはいいけれど、
考えすぎてわけがわからなくなる。
「木を見て森を見ず」は危険だけど、
今は森はほどほどに傍観しておいて、
木をしっかり育てるために観察します。
というのが、週末考えた末のとりあえずの結論。
最近また流れ始めた、CMのCM
これがなぜ流れているか理解している人がどれだけいるのか、
わたしには疑問だ。
ちなみにわたしの両親はまったく分からない。
「これ、意味わかんない」CMになってしまっている。
ひどいのは、
「そもそもCMのCMっていう意味がわからないし、あの四角い生物、一体なんなの?
見てて腹立つ」
と言い放った母のことば。
わたしが、何気なく、これの意味わかる?って聞いてみたら、
こういう答えが返ってきた。
一応事情を説明してみたら、
「そんなの、見てるこっちにはわかんなくて当然だ」
と本気怒りモード。
母よ・・・
かくいうわたしも最初何言ってるのかずっとわかんなくて、
最後にコマーサルくんが出てきて初めて分かったぐらい。
あぁ、去年もやってたね、的な。
それにしても、
ちょっと創り方が一方的やすぎないか??
キンチョールのパロディで創った作品では、
おおたきひでじさんが、
「つまらん」
と言ってコマーサルくんを投げ捨てる自虐ネタにまで発展している。
これって、創ってる側や流してる側さえも、
実はそう思ってるって解釈しちゃっていいのか??なんだか終わった感じがする。
と天邪鬼なわたしは思った。
これじゃ本当にCMを見て欲しいターゲットには届かないのではないかと
わたしは思う。
そもそもテレビと広告会社にとってのCMの重要性なんて、
一般人には知ったこっちゃない話。
番組にはスポンサーがついているのは分かるけれど、
それが一体どう影響しているか、ということについては
興味を持ってあらゆるメディア関連の本を読まないと知らないことが沢山ある。
興味を持って実際に勉強する人は
大方は業界人かマスコミ就職志望者か、
メディアに批判的な人の中でも積極的な人のような気がするから、
それ以外の人は
「べつに、どうでもいいや」というスタンスだろう。
要するに無関心なのである。
CMはただ商品を伝えるだけのものではないことなんて、
知らない人は知らないし、知らなくてもとりあえず生きていける。
彼らにとってのCMの意義を、
情報伝達の意義だけ抽出して、
だからCMって重要なんですって言ったところで、
番組の続きを早く見たくてうずうずしている視聴者の心に届きますか。
遠まわしにごちゃごちゃ言われても
余計にコマーサルくんが謎の存在になるばかりだ。
素直に、
「あなたたちがCM見てくれないと、ぼくたち潰れちゃいます」
って言っちゃえばいいのに、、、って思ったけど、言うわけないか。。。
そもそもCMのCM自体が伝えたいことの核が見えないからなんともいえないけど、
CMの意義を訴求したいなら、
ぶっちゃけちゃえばいいのに。
むしろ、CM見てる人の割合のアンケート発表を見たい。
CMは頑張って創ってる作品なんだから楽しんでよって言いたいなら、
CMだけでしか見られないドラマ(現に存在する)を
むしろコマーサルくん使ってやればいいんじゃないのか。
関心を持たせることがCMの狙いだとすると、
わたしが思うにこのCMのCMというのは
無関心層を掘り起こすどころか、
さらに
「なんかわけわかんないのやってるね、つまらんね」
と入り口から思わせてしまう無関心促進CMだ。
だから、CMだなんて思えない。
わたしには。
+++ 聴いた話 +++
家に帰ってパソコンを開けて、
わたしは久しぶりに異国の地でアーティストをやっている友人と
メッセンジャーで話しました。
その人はあらゆるものから独立して、
一人の力で活動をしていると言いました。
それで自分はハッピーだとも言いました。
その最後の、ハッピーということばに、
わたしは気づかされたのです。
わたしは今何にハッピーだと感じるんだろう。
そしてそのハッピーと言う感情は、本当に心の底から出てきたものなのか、
それともただの現実逃避だったのか。
今まで自分が信じてきた自分の想いというものに、
にわかに信憑性が持てなくなった今、
わたしはとことん極限を観て、聴いて、感じることで
もう一度確信を持ちたいと思っている。
続けるために、確信は必要。
そして確信を得るために、わたしは続ける。
続けるために、確信を持つ。
わたしの周りで、確信を持っている人はどのくらいいるのか分からないが、
今日話した人の確信は本物だろうと思う。
いつもは深く語らないのに、一生懸命メッセージを伝えようとしていた。
わたしも、いつも「わたしもがんばってる」と言うだけではなくて、
「これができれば幸せだ」と堂々と言える人になろうと思う。
そんな、今日一日。
今日はアートに触れる一日でした。
まず、観た。
その次、聴いた。
最後、考えたのでブログに書く。
+++ 観た話 +++
今日は汐留の岡本太郎の絵を観に行きました。
が、その前にユキンコアキラさんのリズムペインティングをやっていたので、
それを初体験。
初、遭遇だったわけです。
感想を一言でいうと、
「爆発」
してました。
「岡本太郎の前で爆発」っていいなぁとわたしは思った。
リズムにのって汗だくで画を描いていく様子は、
わたしには無心な創造風景に思えた。
そしてそれはわたしが時折感じる、作品世界を作る作業中のトランス状態に
もしかしたら近いかもしれないなとふと思った。
最近、考えすぎて感じられなくなってきたこの感覚を、
わたしはもう一度感じたい。
それにはこういう無心な喜びのようなものを取り戻すことが必要かもしれない。
わたしは何よりも書くことで表現するのが好きなんだと、
大きな声で叫ぶ。
ことばのすれ違いは嫌いでも、
ことばなしには生きられないほど、わたしにとってことばは大切なんだと、
泣きながらでもいい、ことばを絞り出す。
だって、しょうがないじゃん。
小さいころからそういうことが好きだったし楽しかったんだから。
きっとこういうことなんだと、目の前のパフォーマンスを観ながら思った。
だからこそ、そういう精神で無心に描いただろう、岡本太郎の絵の前で、
「びぃ〜たろぉ〜〜♪」
って言いながら観覧客の記念撮影のシャッターを押す、
日テレ主催イベントのバイトたちが、許せなかった。
アホか、と言いたい。
頼むからハイチーズに戻すか、何も言わないで。。。
岡本太郎が生きていたら、
この客寄せパンダ的な扱いを許しただろうか。
あの場では、Artは、本当に(M)art化していた。
確かにここまで規模の大きいイベントだからこそ、
あの画が多くの人の眼に触れることになった。
もしかしたら少年少女たちの人生を変えることになるかもしれない。
でも、そもそもの画とは別に創り上げた商業的コンセプトの中に、
作品を融合させようとしたって、それは無理と思う。
本当は美術館のような空間でじっくり画を見るのが好みで、
それは今日の様に人がじゃらじゃら集まって邪魔されたくないから。
だけどそんなコマーシャルにまみれた状況においても、
作品のエネルギーだけは異質だったと感じる。
それはわたしの尊敬する岡本太郎が持つプラスのエネルギーが
キャンバスに打ちつけられたものだからだと、思っている。
それだけに、あの「びぃ〜たろぉ〜〜〜〜〜〜」の声を何度も聴いていると、
お口にガムテープでも貼ってやりたいとちょっと思ってしまった。
そんなわけで、コマーシャリズムの産物であるスーパーマンと
一緒に写真を撮ったわけです。
静かなる反抗。
5ヶ月間も連絡を放置していた友人にメールを書きました。
長い、長いメールです。
日本語じゃないメールです。
カナダのトロントにいるGarbuttファミリー宛てと、
ドイツにいる、ジュリア宛て。
とてもじゃないけどこの5ヶ月の話を凝縮するのは無理だったので、
忙しすぎて死にそうだったけど復活して元気になったよ、っていうことと、
夏休みのことなどを話題に何十行か書きました。
ひさびさの英語だったけど、
意外とさくさく書き終わった気がする。
会話はいいんですよ、会話は。
フィーリングさえ掴めればなんとかなる。
その代わり、硬派な文章はもはやだめだと思う。
彼らからの返信を待ちつつ、
ジュリアとは秋に本気で再会するプランを立てようと思ってる。
それはさておき。
とにかく今週まで精神的にも物理的にも余裕がなく、
毎日が逼迫していたため、
多くの方に不義理を働きました。
この場を借りても見ていない人はいるから借りないが、
心の中でかなり真剣に土下座しています。
これから1ヶ月かけて、縄がほどけかけてる連絡網を、
修復していこうと思います。
もうほどけないようにしたい。
そして、どんな時でも余裕を失いたくない。
そうやって余裕と一緒に失っていってしまっている何かを
後になって拾い集めるのは大変だ。
だから、わたしはぎりぎりのところで保てるようにしたいと思う。
それが今年の目標。
あと数時間したら会社だというに、
なにやってるんだか、という突っ込みはさておいて。。。
Tさんへのらぶれたー執筆完了しました。
ネタを明かすと、
Tさんとは、鳥越俊太郎さんです。
鳥越さんは8月末オープンの、
市民情報発信型メディア「オーマイニュース」編集長を務められるのですね。
韓国発メディアの日本版です。
で、ここの市民記者に応募するため、
ここ一週間ほど、鳥越さんに向けた、熱いメッセージをしたためていたのです。
ここで、わたしは自分の腕も鍛えたいと思い、
また、マスメディアは取り上げない、「ヒト」「モノ」「コト」を発信していける人に
なろうと思います。
目指すは名物コラムを書く市民記者。
そのために毎日の人間観察とアンテナの張り巡らしは欠かさない。
さぁ、早速投稿の執筆準備に取り掛かりますか。
とりあえず、寝よう。
気がついたら、世の中、例のボクシングの話で持ちきりだったらしい。
いろいろな人がブログで意見言ってて、いろんな人がメッセンジャーで怒ってて、
色んな人がテレビでなんやかんや言ってて、
スポーツ新聞や週刊誌は派手に取り上げる。
今日、電車の中でふと周りを見渡して見たらそんな光景が広がっていて、
急に実感した。
遅すぎ??
わたしはそんな空気の中、
「ぶっちゃけ、興味ない」
という態度を貫きまくっていたわけです。
元々格闘技が好きじゃないのもあって、
件の試合すら見なかった。
ボクシングの映画は観るけど、電波で試合を生で観ることはない。
父親が観てると、無条件にチャンネルを変えてる。。。(これは酷いか 笑)
さらに格闘技好きな人の格闘技大好き論(99%男だけど)を、
一度1時間くらい格闘技の精神性について熱弁を振るわれて、
すんごい引いたことがあり、
それもあって余計に好きじゃない。
だって、いきなり電話かけろって言うから、こっちからかけてあげたのに、
こっちの話も聴かずにぶちまけられるし、
素直に「今放送されてる試合を観る気はありません」と言ったら、
まじ切れされて切られた。
最悪の記憶・・・
それで、かなりうんざりしたわたしは、
それ以降、格闘技好きの人(99%は男)と話しててそんな流れになりそうなときは、
「闘いの精神が自分の生き方と通じるんだよね!?うん、そんな気がするよね」
と言って逃げてます(笑)
たいてい、こういうこと言うと、
「わかってるじゃんか、お前」
と言われます。(経験による)
一応補足しますが、
聴く時はちゃんと聴きますけど、
不条理にぶちまけられたり、
一方的に語られたりっていうのは御免だ、
っていう話なので、
わたしの前で、格闘技の話をするなと言っているわけではありません。
誤解なさらぬよう。。。
が、、、、、
わたしと同じくそんなスタンスだった我が母親までもが、
「あの子の態度は見てて腹が立つ」
と言いつつしっかりニュースはチェックしてて、
帰るとまたさらに怒ってる。
わたしはそれをとりあえず聞いて、さらにげんなりする。
やくさんは、わたしが大好きだった番組「スーパーモーニング」で公開喧嘩した
って電車の中でおじさんが広げてた新聞でみたし、
もうこの際、わたしは提案します。
「亀田ファミリーに言いたい」(←「NHKに言いたい」のパクリ)
っていう番組でもやればいいんじゃないの??
一般視聴者募集して、会場に座らせて、
我こそは識者、教育者と思ってる評論家とか、芸能人とかパネリストで呼んで、
言いたいこと言いなよ、お互い。
それで解決なんか絶対しないと思うけど、
場外乱闘をずるずる引っ張って、
大事な他の話がつぶれてしまうんだったら、
3時間ぐらい、大喧嘩すればいいんじゃないでしょうか。
今なら視聴率高いでしょうね。
やるなら今だと思います。
ぜひ、それをやって亀田派も、アンチ亀田派も、
すっきりしてくださいませ。
わたしは観ないと思うけど。
今、真剣に読んでいる本がある。
『東電OL殺人事件』
1997年に起きた事件で、当時わたしは13歳。
中学一年も終わりにかかった3月のことだ。
センセーショナルにマスコミに取り上げられ、未だに公判が続いているから、
鮮明に覚えている人も多いと思う。
概要としては、
渋谷でエリートOLが何者かに殺害されて発見された、と言う事件。
その殺人の容疑者として、ネパール人の男が逮捕されたが、冤罪疑惑が強く、
一審で無罪の判決が出るまでの様子を
ジャーナリストの佐野愼一が取材したという話。
実はそのOLは夜な夜な渋谷の街で、自分の父親くらいの人や外国人に
身体を売っていて、手帳には客リストが残されていた。
「現代のメリーさんってやつだね」
と、この事件のことを教えてくれたIさん(またか、っていう。。。)は例えていた。
と、今はこうして説明できるのだが、実際当時の様子など実は知らない。
わたしは諸々色んなことがあった頃なので、
1997年2月〜5月までの社会の動きがまったく頭に入っていない時期だった。
だから、こういう事件があったとIさんから教えられた時、
一瞬頭の中で歳を計算して、納得した。
わたしとしては世の中でどんな事件が起ころうと、
自分の祖母が死んでしまったということのほうが重要で、
その頃に何が起きたとか、人がなんと言ったとか、授業は何をやってたとか、
まったく頭の中に入ってこない状況だったのだ。
今考えると、あのときの自分ならこの事件に対してどんな感想を持ったのか、
とても気になる。
それとも自分には縁がない人と世界だと思って、拒絶していたのだろうか。
でも今なら言える。
わたしはこの事件の被害者の気持ちはもの凄くよく分かる。
どこがどうという話は具体的には出来ないが、
彼女の経歴や行動パターンは、わたしと通じるものがあると思っている。
もの凄い感覚的な話だけど、
彼女の爆発しそうな感情がわたしの中にすっと入ってくる気がする。
読み終わったら、このあたりについてまた書こうと思う。
それにしても、
わたしがこの本を取り付かれたように読んでいるのはなんなんだろう。
それにしても、
なんでIさんはわたしがこういう話が好きそうだと1時間あまりで見破ったのか。
たまたまメリーさんについて語っていた時に、
「あんたにとって興味深いだろう話があるよ」
と言って、さくっと概要だけ話した後、Iさんこう言った。
「あんたきっと好きだよ、この話。見つけたら読んでみな」
その時もびっくりしたけれど、
今の方がもっとびっくりしている。
Iさんは何でもお見通しの神なのか??
それとも、ただのまぐれか。。。
たった一時間話しただけで、
わたしの奥深くというか、絶対人には言わないようなダークサイドまで見抜いた人は、
今までいなかった。
そして、わたしはIさんの予知どおり、
今この本を毎朝と毎晩、通勤電車で喰らいつくように読んでいる。
一ページ一ページ、うなづいて、共感して、自分も泣きたくなりながら読んでいる。
事件の関係者全員が、いろいろな人の顔に重なって仕方がない。
やっぱり、「事実は小説より奇なり」なんだなと実感する。
わたしの身の回りで動いていることも、
単なる日常ではなくて、本当は作り物の話よりずっと奥の深い、真実なんだと思う。
今さらだけど、わたしは自分の名前を初めて好きになった気がする。
けっこう、わたしの今の志向を表した名前じゃん。(本名の話です)
両親もある意味予知したってわけです。
すごいな。
ありがとう、両親。
よくこんな人がいる。

今日はこういうタイプの人と、なんと3時間も一緒にいるはめになった。。。
精神的疲労マックスだった。
お地蔵さんみたいな柔和な顔しておいて、、、
言うことはぜんぜんかわいくない。
悪いけど、憎たらしいお地蔵さん。
あまりにやられてしまったので、
ダリよろしく心の闇をシュールに描いてみました。
(闇=毒とも言う。。)
ほんとのお地蔵さんに失礼っすよ。
まったく。
おわり。
>まず始めに、Aさんへ
これで大丈夫ですよね。伊勢佐木町。
今日しかと目に焼き付けました。
今日は忘れかけていた普通自動車運転免許の更新に行ってきました。
>一度行った場所に二度目に行く時、すっごい迷うタイプです。
昨日のエントリーでこう書いた私。
見事に、二俣川試験場まで行くバスが出る、バスターミナルを見つけられずに、
二俣川駅で立ち往生しました。
目の前にバスターミナルはあるというのに、
そこへ通じるエスカレーターや階段が見当たらない。。
行き着けるか!と思いきや、ターミナルの外へと出てしまうのです。
ショックだった。
外と中を出入りすること10分強。
もう一度駅の改札から出直してみようと戻る途中、
なにやら足元にやたら大きくて目立つ矢印が!
そこには、ちゃーんと、
「二俣川運転免許試験場行きバスターミナル」
と書いてあって、下に下りる階段へとつながっていたのでした。
ジンクス再来です。
更新をしている間、講習というのを受けました。
交通事故の悲劇を描くドラマを観たのですが、
その中に、なんと見栄晴が出ていた。
彼の登場シーンで、教室のほとんどの人が、
「あ、、、」という顔をしてました。
更新が終わって駅に着いたら、
なんとK女の後輩が妹とショッピング中のところに遭遇。
しばしわたしの危ない話をする。
それから時間もあったことなので、
そのまま桜木町へと出て、この前夜歩いた野毛〜伊勢佐木町界隈を散策。
そういえば、わたしは野毛山動物園に連れて行ってもらったことがなかったな
と思い行ってみるも、
なんとなく空しくなったのでやめた。
一人で動物園というのは、
夕日の落ちる中で、ひたすら檻の中の猿か、象を見つめるシチュエーションだろう、
と勝手に思っているので、
それなら上野動物園が良いのです。
それから野毛の通りを抜けてコリアンタウンを突っ切り、
福富町近辺に突入する。
前とまったく同じルートである。
が、なぜか夜より昼間の方が怖かった。
そもそも人がいない。
ほんとにいない通りもあって、そこに車が止まってると警戒せざるを得ない。
死角も多いことに気づく。
いくらソープランドのおじさんが出入り口でタキシード姿で迎えていようとも、
人が歩いていない道だから、
見えないものは見えないままなのだ。
夜はその点、お客さんたちがうようよ歩いていて、
LED使いまくりの照明効果も一役買っているような気はする。
今日の出来事を挙げます。
変な髪型してるホストのおにぃちゃんに、不意にガン飛ばされたものだから、
なんとなく飛ばし返してみたら立ち止まって振り返ったので、橋の影に隠れてみた。
(そもそも返すなよ、という話)
あと、道のど真ん中で、東南アジアの女性陣(まさに、こんな感じの立ち位置)が
何人か同士、お互い激飛ばしあっていて、
その近くで謎の男がふむふむと話の傍観者になってる図があった。
通り抜ける時にすっごい気を遣った。
男よ、彼女なのかなんなのかわかんないけど、
女の影に隠れてないで、なんとかしろ。。。
って言いたかった。
かなり怖そうな彼女でしたけども。。。
今日もあのタバコ屋さんはありました。
人間の欲望にあふれる街にひっそりたたずむタバコ屋さん。
一つだけ異空間のタバコ屋さん。
店主のおじさんは道路に打ち水やってました。
偉い。
チームマイナス6%かな、これは。笑
まぁ、打ち水と称した、人除けと言う感じでしたが。。。
あまりに勢いよくホースから放水するものだから、
わたしは濡れそうになって思わず飛び越えちゃいましたよ。
今日もまた話しかけられませんでした。
くやすぃ。
次はいつタバコ屋さんと遭遇できるかなぁ。
さすがに今日怖すぎたので、
次はあまり危ない橋は渡らないようにします。
わたしは、地理が分からない子なんです。
つい最近まで、群馬県の県庁所在地は、宇都宮だと思っていて、
有名な餃子を食べるには群馬県まで行かなくちゃならないのか、うむうむ、
と真剣に考えていた人です。
湘南新宿ラインの宇都宮線直通、というのは、群馬県まで行くと思っていて、
ずいぶんと曲がった線路を敷いたもんだなぁと思っていたんです。
で、何が言いたいかというと、
つい最近まで、わたしはチベット自治区というのはネパールだと思っていた、
ということなんです。
正確には中国です。
これは、相当恥だ。。
散々中国と、他の自治区、そして台湾問題とかを勉強したのに、
チベットをネパールだと思っていたというわたしは、
頭を下げても下げたりないくらいの間違いをしていたわけです。
でも、大間違いではなくて、
チベットには中国側とネパール側パートがあります。
さらにネパールにはチベットからの難民事務所もあるから、
ネパールにチベット人が住んでいることは大いに考えられることなのです。
完全自己弁護ですが。
話は違うけど、
わたしは○○自治区という場所に行ってみたいと前々から思っていて、
ウイグル自治区もその一つ。
チベット語もそうだけど、タイの文字かと見まごうほどのくねくね文字と文化。
それを観に行きたいのです。
ウイグルは比較的近い将来に実現できそうだと思っている。
チベットは政治状況によると思う。
というわけで、ボケをやってしまったわけですが、
もう一つ自己弁護しておくと、
地図を読むのはできます。
ぶっちゃけ、方向感覚の嗅覚はいい方だと思います。
知らない土地でも、住所さえ分かれば行き着けます。
時間はかかるかもしれないが。
これは、ほとんど残ってないだろう野性の勘というやつです。
伊勢崎町から戸塚まで歩いたあの日に、それを実感した。
だけど、一度行った場所に二度目に行く時、すっごい迷うタイプです。
目的地の小学校がもう一本先の道を曲がったところだったというのに、
ぐるぐるその周辺でおろおろしているところへ、
知り合いのおじいさんが登場し、車で連れていってくれたこともありました。
あれはかなりヒーローだった。
60歳くらいのおじさんがあんなにカッコよく見えた瞬間はなかったです。
というわけで、地理をまたもや間違ってしまい、すみませんでした。
かろうじて一都一道二府四十三県が言える大学卒、ですが、
今後もよろしくお願いします。。
わたしが尊敬してやまない、Freddie Mercuryのソロ名義音源と、
DVDが発売されます。
事前の噂によれば、Box Setの内容とほとんど変わらないということで、
わたしもさっき一応確認してみた。
わたしが以前、入手した○万円のボックスセットは、
CDが10枚、DVD2枚、ブックレットで構成されている。
CDは一枚につきせいぜい10曲。
もしくは、短い音源を20弱収録したものもある。
今回のCD、DVDリリースは、
それらのなかからピックアップして、コンパクトに2枚にまとめました、
という位置づけだろうと、Freddieマニアとしては推理してみました。
確かに、散在する名曲がコンパクトに入っているCDは欲しい。
それから、ドキュメンタリーは、本当に同じものなのかどうかわからないから、
見たい。。。
わたしは買ってしまうんだろうか。。
今回の発売は、あのボックスセットを買い逃した人向けともとれる。
なぜならボックスセットはもう製造中止になっていて日本では入手できないからだ。
つまり日本語版がもう手に入らないということ。
わたしはアマゾンで輸入版をずっと待ち続け、
やっと入荷したところで即買いした。
あのときの時間との闘いは忘れない。
フレディの命日に一人で飲んでいる時、
たまたまぼんやりアマゾンで検索していたら、
「入荷」表示になっていた。
これは何かのサインに違いないと思って、
即刻、購入ボタンを押した。
(実はこのとき、お金ほとんどなかったんだけど、なんとか工面したのだ)
で、10日くらいして届いたブロンズ色のボックスセットを手に、
コドモのように大喜びをしたのだった。
やばいなぁ。
買ってしまいそうだなぁ。
買うしかないかもしれないなぁ。
最近いろんなロック歌手に浮気してますが、
しばらくしてクイーンの曲やフレディの曲を聴くと、
「やっぱ、これが落ち着くな」
と思うわけです。
ふとした瞬間に、フレディの
「Come on baby」
と言う声が聴こえてくるのです。(ここでネタ元が分かった人はすごい)
フレディ愛は深いのです。
結論:たぶん買います。
大衆性と芸術性、
文学で言えば、直木賞と芥川賞の違い。
この二つを作品の中で両立させることは果たしてできるのだろうか。
そもそも大衆性ってなんだ。
読みやすさとか、理解のしやすさとか、臨場感とか。。。
対象とする人々の間口はさまざまだから、
どこかしらに引っかかる要素を散りばめて、
みんながどこかに面白みを感じるものなのか。
じゃあ、芸術性ってなんだ。
それは独りよがりなのか。
とてもニッチな間口を持つ人々に向けた、
極めてニッチな部分に特化したものなのか。
特定の人にとっては良くて、特定の人にとっては拒絶したいものなのか。
わたしは今まで芸術性のことばかり考えてきて、
自分の世界を作り上げようと必死になってきた。
でも、そもそもこの無関心で閉鎖的になっていく周囲の環境を、
どうにかして変えてやりたい、
どうにかして変えてしまいたい、
というおこがましくも大きな目標がある上では、
一つの固まった世界だけに固執したことをするのではなく
それをいかにポップにカッコよく見せて、
さらに次世代スタンダードたる雰囲気を醸し出させるかを考えなければならない。
それは、その目標を持ち続ける限り、マストである。
その中に、また世界観を構築しようとすると、わたしの場合、上手くいかない。
客観的に自分の生み出したものを見ていると、そういう結論になる。
わたしはおちゃらけてるならおちゃらけた雰囲気で、
どうでもいいならどうでもいい雰囲気で、
肩の力を抜いてしまった方が、一本の筋を通せるみたいだ。
意外な結論だった。
今まで上手くいった作品は、皆、そうやって肩の力が抜けていて、
くだけていて、言いたい放題言って、最後は良い事言っちゃいました系だったりする。
それの何が良かったのか分からないけれど、
きっとわたしの良さはそれなんだ。
就活の最後、わたしが至った悟りに、
結局本音をぶちまけてる自分の方が面接相手にとっては面白かったんだろう
というものがあって、
今のわたしが生きてる道でも、きっとそれはそうなのかもしれない。
そんなことをふと思った。
じゃあ、これから思いっきり、肩の力抜いてやろうじゃん。
くだけてやろうじゃん。
高尚なことなんて言わない。
それは真ん中過ぎた終盤あたりで一言だけバシっと言ってやる。
最後までぐるぐる回って、何がなんだか分からないけれど、なんか良かった
っていうものにしてやろう。
だから、今書いてる自己PR書も、堅いことなんて書かずに、
Tさんが引っかかるポイントを押さえて、のほほんと書いてみようと思う。
ここ数ヶ月の思考も、最後にきてここで吹っ切れまくりました。
今後につづく、
とあるジャーナリストにラブレターを書いています。
正確に言えば、自己PR兼志望理由書。
実は今月末からTさんが編集長を務める新しいメディアが生まれます。
わたしはそれの記者に名乗りを上げたいと思ったわけです。
理由は、市民記者という名前に惹かれたから。
市民じゃなきゃ伝えられないことはある。
実際それが創刊テーマではあるんだけれど、
わたしは一小市民として、
世の中にはこんな人がいて、こんなことをやっている。
ね、面白いでしょ。
というのを書きたいと思っています。
世の中には出てこない、ヒト、モノ、コト。
わたしはそれらのものたちが大好きだ。
そして、そういう世界を描いていきたいと思っています。
このチャンスは、わたしを何かしら変えると直感しています。
だから、何が何でも、やりたいんです。
一応自分で注釈つけると、
これはいわゆる副業というか、ボランティア的意味合いが強い仕事なので、
今の仕事やめると言ってるわけではありません。
自分の鍛錬の場を増やすだけです。
もっと、色んな世界を見たい。
利害に縛られない見せ方、伝え方を考えたい。
さて、そのためにも頑張って書類を書かなければ。
待っててね、Tさん。
わたしをどうか、採用してください、Tさん。
スーパーモーニング、ずっと見てました、わたし。
そんなの理由にならないか。。。
今日は、同じチームで仕事をしていた人で、、
会社を辞めることになってしまった先輩社員の送別会がありました。
花の舞で飲みました。
先輩、手品ショーを繰り広げました。
まじ、すごかった。
一芸でマジックをやる人はたくさんいると思うけれど、
ここまで自分のエロキャラ(社内の通称・・・)を発揮しつつ、
レベルも高い、楽しませるマジックを展開できるのって、
素直に尊敬。
この先輩は、好奇心の塊で危なっかしいわたしの理解者でもありました。
お昼食べてる時、わたしともの凄い話が合う人でした。
いろいろ複雑な事情があって、会社を去ることになってしまったので、
みんなその急な出来事の実感をする前に、送別会になりました。
二次会でカラオケに行ったとき、
他の二人の先輩が、T-BOLANの歌を感動的な替え歌にして熱唱したとき、
他人事のはずなのに、わたしまでじーんと来てしまいました。
いいなぁ。
わたしは、やっぱり出会う人には恵まれてるなぁと思いました。
なんだかいろいろ考えた今週だったけれど、
最後に、人の優しさに触れられて、わたしは少し社会を信じることができそうです。
その人が担当していた業務をほぼ7割くらい引き継いだので、
得意先の人に怒られないように(というよりむしろ出入り禁止にならないように)
がんばろうと思います。
人を育てるということには、
コストも時間も、労力もかかるし、
何かが犠牲になる。
と考えているなら、誰も、育てる気持ちにはなれない。
犠牲と思っている間は、
そのような心からの感情は浮かばないだろう。
犠牲と考えてしまうには理由がある。
その組織、人が重きを置く価値が、「育てる」こと以外に向けられているからだ。
だから自分の世界の聖域が、不可抗力によって崩されてしまうことは、
言ってみれば犠牲だ。
組織が人を育てるというのは、どういうことなんだろう。
犠牲と思うのが嫌なら、犠牲をなるべく減らせばいい。
そういう組織の方針転換によって、
いとも簡単に、誰かの将来につながる軸がゆらいでしまう。
いくら叫んでも、その軸を元に戻すことはできない。
人は、犠牲をなくすために新たな犠牲を作り出す。
人が人でいるかぎり、
犠牲と言う言葉はなくならない気がする。
一体どうなっていくのかまったく見えないまま、
犠牲をエネルギーに変える方法を考える。
思うところがあるので、これを今日は書きます。
今日のモードはしんみりモードです。
今日は会社を出たあと、なんとなく家には足が向かわずに、
横浜で途中下車しました。
そして根岸線に乗り換えて、桜木町へ。
いつもはそこからみなとみらい方面に行く。
今日も実は大さん橋でぼーっと考え事しようかと思っていた。
でも、今日は反対方面に行くことに決めました。
野毛に行きたかったのです。
行ってどうすることもなかったんだけども、
とりあえず夜の野毛をひたすらぐるぐる歩いてみたかった。
野毛山公園には足が痛すぎて行けない気がしたので、
そのまま関内方面へ。
ぼんやり歩きました。
いろいろ考えながら。
いろいろってなんだろう。
会社のこととか、人ってなんだろうとか、
わたしが叫びたいことってなんだろうとか、
本当にいろいろ。
そうしたら、橋に行き着きました。
一人で酔っ払いまくってるおじさんがちゃんと横断歩道を渡ったのを見届けて、
わたしも渡りました。
コリアンタウンのある方面に曲がり、
そのまま、福富町に突入。
昼間のように明るかった。
眠らない街って、こういうことを言うんだなと思った。
むしろ昼間の太陽よりも明るいんじゃないかというくらい。
最初は目が慣れなかった。
しばらくシバシバ瞬きして、やっと目を開けて通れるようになったくらい。
そんな眩しいほど明るい通りには、こんな人たちがいました。
狭い通りの両脇で座り込む(日本人じゃないと思われる)女性たちと、
店の前で立つタキシード姿のおじさん、あるいはにいちゃんたち、
それからアロハシャツ風のシャツをだらぁ〜っと来ている人々、
そしていたって普通の服装をしている人々、
酔ったサラリーマン数人とそれを支える女性、
最後に、スーツでipod聴きながらずんずん歩く女一人(←わたし。。)
この最後の人物は、みんなの注目を浴びました。
「あいつ、だれ??」みたいな。
そりゃそうでしょうね。
普段見かけない、異質な雰囲気漂う人間ですからね。
しかも風俗店をじーっと見ながら、
別に入るわけでもなく(というかそもそもターゲットですらないし)
入り口にたつお店のおじさんに、ちょこっと頭を下げつつ(下げるなって。。)
ささっと通り過ぎ、
その一瞬に、おっさんたちが行列で何か書類に書き物をしながら、
順番待ちしている図を思わず目にし、
うょょょょ
っと目を見開き、
またハイヒールをコツコツならしながら去っていくんですからね。
そんな、のほほんとわりと危険なところを夜遅くに歩いていて、
よくぞ無事でしたねと、
誰か様に言われそうです。
いや、むしろ、
「あんた、あれほど一人で行っちゃいかんと行ったでしょうが」
と言われそうな、そうでもないような。。
人にぶつかんなくてよかったですね。
すれすれのところで、見るからにやくざっぽい人への激突を避けましたが、
あれは、一体どういう種類の反射神経だったんでしょうか。
本能的反射なのか、条件反射なのか、なんなのか。
いつもは反射神経良くない人なんですけども。。。
そんな街の中に、一つ異質な空間がありました。
それは、明るい照明の中、ひっそりとたたずむタバコ屋さん。
そこに、「もう戦後からずーっとハマに住んでますぜ」的なおじいちゃんがいる。
しかも、なぜか店舗からぐぃっと身を乗り出して、きょろきょろしている。
それがもの凄い変なきょろつき方。
それで、目立ってる。
個人的パトロールなのか??
とにかくすごい不思議なおじいちゃんだった。
あのおじいちゃんは、ずっとこの風俗街の中で
毎晩のように人を見ているんだろうか。
ちらっとそのおじいちゃんと目が合った。
やっぱり、この子どこから来たんだろうという顔をしたような気がした。
まぁ、スーツだったし。。
というわけで、今度昼間に行った時に、お話を聴いてみたいなぁと思ったのでした。
今日は珍しく誰にも話しかけずに関内駅まで行き着いてしまったので。
街中で不思議だと思うことをしている人には、
なにをやってるのか聞くことにしています。
今のところ一番不思議だったのは、
渋谷のセンター街でシルバーアクセサリーのお店をやっている、大きなアメリカ人。
なんと昔合気道をやっていて、選手を目指したが怪我で挫折して、
実業家になったら成功しちゃったぜ、みたいなことを言っていた。
で、武道の道を忘れられないため、
店内は力士と撮った写真で埋め尽くされている。
おいおい、若者はぶったまげちゃいますよ。
やたら力士と写ってるこの人、だれ??
あ??店内にいる!?
え??あれが店長??
っていう感じに。
話は戻して、
わたしはふらぁ〜っと何事もなく伊勢崎町へと返り咲きました。
イセザキモールを抜けて地下鉄関内駅に向かいました。
JRだと乗換えが面倒だと思って、一本で戸塚まで行く選択肢を選んだ。
マリナードという地下街を通って行くのだけど、
むしろこの地下街の方が人通りがまったくなくて、怖かった。
死角ありすぎ。。
自分のヒールのコツコツと言う音しか聞こえなかった。
それから地下鉄に乗る。
もの凄い混み様だった。
今日のわたしは、
ずっと一人で異質さを体現しながら歩き、
地下鉄の中で日常に浸かった。
なんだか今週は、
日常の中に溶け込むよりも、
異質さを体験することに気が引かれる。
目の前の現実から逃げようとしているのか、
ただ単に人とのふれあいが恋しくなったのか、
よくわからない。
だけど、いい意味でも悪い意味でも、
自分の身は自分で守るしかないことを感じている今週。
こんな見に迫る危険を通り抜けて感じるものは、
わたしの印象というのは捨てたもんじゃないなということと、
この状況をとりあえず楽しもうと思ってみて、周りを観察しまくろう、
ということだった。
そんな、ある夜の出来事。
タイトルの3人は、登場人物です。
それにマリコさんという女の子が主人公です。
当初はマッド・サイエンティスト イヌヅカ博士 がメインで出てくるはずだったのが、
急遽、ラブストーリーになった。
それは目標とするコンテストを変えたからなのだけど。
書こうと思っていたテーマは同じでも、
書き方とテイストが違うと進みも違う。
ラブストーリーは比較的書きやすかった気はする。
独自のラブストーリーではありますが。。。
ほぼ一気に書きあげた感じがする。
なんだか久しぶりに気持ちがよかった。
実は30日から31日にかけて貫徹した。
ひさびさの貫徹。
朝はまだテンションがよかったものの、
午後3時すぎのあの睡魔は酷かった。
マウスを握ったまま動けなかった。
頭の中で思考はめぐるんだけど、手と思考が連動してくれない。
なぜそんな状態になってるかなんて会社の人には説明できないから、
「マリーさんは今日はご気分がすぐれないらしい」
ということにしておいた。
深くは聞かないで、っていうね。
会社帰りにネットカフェにこもり、ラストスパート。
ゆうゆう窓口に行こうとしたら、K女友達、○れちゃんと再会!
演劇の道をまっしぐらに進む彼女と、
ひたすら作品を書き続けるわたしは、
しばし語り合う。
造るってなんだろう。
表現するってなんだろう。
ただ踊る、ただ書くってどういうことだろう。
こういうことを語れる人が今周りにほとんどいないから、
久々に語れて嬉しかった。
彼女にIおじさんのことを話したら、こういわれた。
「そういう出会いをするのも才能のうちだよ」
凄い考え方だと思った。
でも確かに、そんな面白い人と会いたい、話したい、と思っていないと、
そういう人たちとはめぐり合えない。
わたしは幸いにして、そんな楽しい人たちを、かぎつける嗅覚が強いんだと思う。
お互いにがんばろうと励ましあって、ばいばいしました。
またみんなで会いたいな。
執筆に没頭しているおかげで、
いろいろな人への不義理が溜まっていきます。
申し訳なくてしかたがない。
今週は、みんなにメールを送りまくります。
とりあえず、お疲れ、自分。
自分のための晩餐会は明日やろう。
ウイスキーとブランデーが残ってるしね。
心地よく酔いたいです。