2006年08月24日

ふっきる。

いろいろなものを吹っ切った心境です。
いろいろと胸につかえていたものが、
少しずつ融けていってくれているのが分かります。

この8月は激動でした。
組織にいるということは、便利で守られている反面、
不条理なことも享受しなければならない。
その現実を受け入れるのは到底困難な状況に置かれていて、
自分の気持ちのやり場がありませんでした。

わたしが会社に入った目的は?
わたしがやりたかったことは?
わたしはなぜ内定をもらえたのか?
わたしはどう生きたいのか?

詳しくは書けないけれど、
わたしはある意味、行き場を失った。
Iさんがある日わたしに言ったように、
希望を持っていた、かつてわたしが思い描いていた将来は、
今はここにはありません。
今の状況で手に入れることはできません。
手に入れるには、もう一度再出発をするしかないのです。

その現実は、弱っちいわたしには重すぎて、
直視できませんでした。
いや、直視することが怖かった。

放心状態のわたしに、ある日同期が言った。
「あんなことがあったけど、大丈夫なの?」
その言葉で、わたしは自分が大丈夫じゃないことを初めて実感した。
それまでは、一体何が起こっているのか理解したくない本能が働いて、
脳内での情報処理能力は皆無。
棚上げ状態だったのです。

それから後、わたしはかつてないくらいの大混乱期に突入しました。
社会というところに出るにあたって、誰かを信じていたかったけれど、
もう誰の言うことも信用できない。
相当酷い人間不信に陥りました。
元々人間不信気味なところがあったのに、
余計に自分のことしか考えられなくなってきて、どうしようもなくなった。

でも結局、判断するのは自分なんだから、
今の状況をどうこう言うことは、過去の自分を否定することになるんじゃないか?
よく自分に言い聞かせることばとして、
「自分で自分を信じてあげなくて、誰が信じてくれるんだ」
というものがあるのですが、
これはまさにそうで、自分がかつての自分の判断や予見を全否定してしまったら、
今生きている自分の存在自体を全否定することにもつながるわけで、
それはもう救いようがない。

だから、わたしは信じる。

過去の自分も、現在の自分も、将来の自分も、信じる。

そしてそのために、現実と自分の人間としての醜さや汚さも全て受け入れる。
やっと、直視できるようになった現状と、自分の本当の姿は、
目を覆っても覆っても、なお反吐が出そうなくらい気味が悪い。
初めてまともに直視した自分の腹の中は、
欲と無謀な野望と堕落に満ち満ちていて、
これがわたしが本当に考えていたことだったのか、
わたしはこんなにも醜いものを持っていたのか、
と到底信じられないくらい、どろどろとしたマグマを抱えていた。

それに気づかせてくれたのは、
実は得意先の名物の担当者で、
わたしの周りでは非常に評判が悪い人だった。
怒り心頭で電話をかけてきたその人は、わたしに言った。
「あなたはこれを御社のベストな提案として送ってきたわけですよね?」
わたしは、はい、とは言えなかった。
到底言えるような代物じゃなかった。
そもそも、はい、などと言うつもりもないほど最悪の態度をとっていた。
だって、ぶっちゃけやる気ゼロで適当に作ったものだったから。

わたしは適当さをごまかす術はなぜか得意で、
ピンチになってもそれで乗り越えてきたから、大丈夫だと思っていたんです。
でも、見抜く人は見抜く。
わたしの過去の生き方を、見抜く人は見抜くんです。
当たり前です。
素直に失礼を働いたことを自覚してます。

あのとき、わたしはその人のことをプロだと思いました。
どんなに言い方のきつい人であっても、
どんなに癖のある人であっても、
その人はプロとして、根性が曲がった新人の奥底を見抜き、
腹を立て、
プロとして責任を取らせようとしたのです。

あの時、
はい、という言葉が言えない自分を目の当たりにしたとき、
わたしは、自分を取り巻く全ての辛い現実から逃げようとしている、
いや現実を受け入れようとすらしていない、
根性なしの自分を見ました。
情けなくなりました。

いろいろなことに手を伸ばし、
それはわたしの趣味であり生きる道でもあったはずなのに、
いつしかそれは精神的逃げ場となり、
最終的に責任回避の逃げ場にまでなってしまっていた。
相当ショックで、思いっきり大泣きさせてもらいました。
泣いても解決しないのは分かっていたけれど、
憑き物を落とすかのように涙を流すことで、
なんとか消化してしまいたいと思っていたのです。

仕事とは別にあるわたしの生きる場所が、
単なる精神的逃げ場であるならいい。
それは大いにあるべきだと思う。
でも、それを言い訳に使ってはいけない。
たとえばそれは恋愛関係でも同じ。
知らないうちに彼氏に依存して、自分を見失った結果、
多くの物を失ってきたじゃないか。
人間は弱いから、精神的に頼れる人や物に依存したがる。
そのほうが自分と闘わなくて済むし、楽だから。

でも、それを言い訳にしてしまうほど自分から責任感を引き離してしまったら、
結局残るものはなにもないのだ。

我が敬愛する岡本太郎はこう言った。
「道に迷ったら、いばらの道を進め。
徹底的に自分と社会と闘うことで、はじめて人間として生きていることを実感できる」

生きている実感は、極限状態にならなければ感じられなくなってきた現代において、
肉体的にではなく、
精神的に苦しみ、悩み抜き、もがくことで、生きる実感を得る。
わたしはいっそのこと人間から脳をなくしてしまって動物でいられればいいのに、
とさえ思っていた時期もある。
それくらい、自分が本当に生きているのか死んでいるのか、
生きて何をしているのか、感じることなく、感じる必要性もないまま、
日常は過ぎていくことに、虚脱感を覚えていた。

岡本太郎のいう、精神的いばらの道というのは、
実は肉体的いばらの道よりもはるかにハードルが高い。
肉体的いばらの道は、もし致命傷を受けたならそれは死を意味し、
そこで闘いは終わってしまう。
しかし、精神的いばらの道というのは、
精神的に負けたとしても肉体は生きているわけであり、
焦燥感にさいなまれたまま、死ぬこともできず、
それまでの苦しみの倍以上の重荷を背負うこととなる。
敗北後に自分にのしかかるものを背負ったまま、
闘いは肉体が滅びるまで終わってくれない。

まるでギリシャ神話のアトラスである。
アトラスは石に変わるまでに一体何を考えたのだろうか。

わたしは今精神的いばらの道を歩もうとしていて、
それは本当に本気で自分と闘わないと、
もはや崖から落っこちて二度と這い上がれないくらいの位置にいると思う。
愛読書の少女漫画「SWAN」で聖真澄が、
現実から逃げるために難聴になる場面と同じかもしれない。

何も肩肘張って闘うというのではない。
現実から逃げない。
自分を信じてあげる。
それから人のことも信じる。
これを徹底していくことが、時間はかかるけれど近道なんだと思う。

いろいろな細かいことの再出発は決めかねるが、
わたし自身の生き方として、再出発は望めると思う。

何よりもわたしの現在と将来を信じてくれた人と再会し、
何も言わないけれどわたしのことをそっと見守ってくれる人たちが
わたしの周りにいるんだという、この環境を、
大切にし感謝をしつつ、再生していきたいと思います。


同じような悩みを持っているだろう友人に向けて、
わたしが思っていることを長々と文字に起こしてみました。

おわり。

Posted by fre9 at 2006年08月24日 03:10
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