我が家は、7月にお盆を迎えるのです。
実は昨日、送り火でした。
毎年、迎え火、送り火をやっていたのに、
今年は迎え火には参加できませんでした。
仕事だった。
だから、送るのだけはちゃんとやろうと思って、
日曜日は誰との約束も入れず、家で過ごし、夕方を迎えたのでした。
お盆という行事はわたしの中ではとても意味のあることです。
仏様を、お迎えして、3,4日一緒にすごして送る。
一緒にすごすといっても、お供えしたり線香をあげたりするだけなのだけど、
そうやって、死んでしまった人のことを思い出す機会というのは、
日々の中ではあまりない。
毎日仏壇にお供えをしてお線香をあげる時間はなかなか取れない。
ちらりと眼に入る祖母の写真が、
唯一わたしに祖母を思い起こさせる物だったりする。
もっと祖母といろいろな話をしたいと思った矢先に亡くなってしまい、
しかも、人間の死というものを分かっていなかったために死に目に会えなかった。
そういう負い目の想いがいつまでもわたしの中にあって、
やっとこういう行事をまともに受け入れられるようになったのは、
実は大学になってからだった。
迎え火、送り火の意味を知って、
ちゃんとやろうと思った。
迎え火では、きゅうりで作った馬。
これは、早く仏様が来るように、という意味がある。
送り火では、ナスで作った牛。
これは、のんびり帰っていけるように、という意味がある。
そういった仏教の精神が少しだけだけどわたしを救ってくれたこともあって、
それまで
「結婚式はキリスト教で、死ぬ時は仏教なんておかしいから、
別に死んだら無宗教葬でいいよ」
と言ったり、
「宗教は?」と聞かれても
「無宗教です」と答えていたりしたのだが、(実際この答えが当たっているんだが)
家が臨済宗だったということもあって、
今では、
「わたしは仏教です」
と堂々と言っている。
お寺で行われるお彼岸の法会にも一年に一回は行くようにしている。
なかなか、お経を聴くというのもできない体験なんです。
お坊さんたちがお腹から搾り出すあの合唱は、
すごい威力があるんです。
そのうち、般若心境を覚えてみたいと思うはずです。
とはいえ、仏陀の全ての教えを知っているわけではないのだが、
時折、仏教本なぞを読んでいたりもする。
なんとなく、日本で宗教というと怪しいイメージがあるし、
わたし自身も某宗教団体に無断で名前を使われるという事件にあって
怒り心頭だった体験もあるのだが、
いずれ、
わたしはキリスト教。
わたしはイスラム教。
わたしは仏教。
わたしはヒンディー教。
わたしはユダヤ教。
etc
と言えるような社会が来るといいなぁと思う。
信じている宗教が何であれ、
その人はその人だから。
だけど、そのためには政教分離は不可欠。
とはいえ、今はどこの政党もそれは無理なのかもしれない。
だとすれば、人の名前を勝手に使ったり、
強引な勧誘をして人間関係を引き裂いたり、
そういう秘密結社のようなことを正義のようにしないでほしいなとも思う。
そんなことを考えた、
ことしのお盆も、さっき提灯を片付けたことによって、
終わりを迎えました。
明日の法要には出られないけれど、
心の中で供養します。