観ました。
芥川龍之介の「羅生門」は、たしか短い作品だった。
それをどう90分に引き伸ばすんだろうと思っていたら、
実は「藪の中」を羅生門で語るという筋だったのですね。
知らなかった。
話の流れはよく分かっていたので、
今回は主に俳優を観察していました。
一言でまとめてみます。
「三船敏郎、今更だけど、魅力的すぎ・・・」
というわけで、わたしのダンディズム論と合わせて語りたいと思います。
黒澤映画には三船敏郎という組み合わせがあることは知っていた。
だけど、わたしにとっての三船敏郎という俳優は、
三船みかのパパ、という位置づけで、
実はよく知らなかったわけです。
だからここまで芸達者というか、
ロバート・デ・ニーロのようなカメレオン役者であり、
男性的魅力にあふれている人物だったんだと分かった昨日、
「生きてるうちに会いたかったよ」
という思いでいっぱいになってしまいました。
(またもおじさん趣味に暴走してますよ、あんた、という意見は後々でお願いします)
(あと、時代劇マニアっぷりを見せ付けますが、お気になさらぬよう・・・)
画面での存在感がすごい。
三船敏郎がいないシーンは、
何かが欠けていると思わざるを得ない。
だから、今日も黒澤映画借りてきたけど、
彼の出演していない映画はちょっとまだ借りれない感じだ。
何も声を発せずして存在感を発揮するというのは、
非常に難しいことである。
よく華だとかオーラだとか言われるけれど、
気迫かなとわたしは思う。
何か分からないけれど、彼には必死さを感じる。
三船敏郎ともう一人の男とで決闘をするシーンがあるのだが、
それが実にかっこ悪い斬り合いで、
二人とも転びっぱなしだし、足を掴んだり空振りしたり、
とにかくここまで見っとも無い闘い方は観たこともないというものだった。
それを二人の男が必死の形相でやっていて、
そのシーンは20分くらいも続くのだ(しかも、1カットのみ)
でも、わたしは本当の人間の姿を観せられたような気がした。
大河ドラマや他の時代劇のちゃんばらシーンというのは、
実に精密に計算されつくしている。
誰かが真ん中に立っていて(多くは主人公だが)
斬られ役があちこちから走ってくるのを片付ける。
あるいは、飛び上がってみたり峰打ちをやってみたり、
技を駆使して相手を追い詰める。
そして相手を倒した後は、
チャリンと刀を仕舞う。
そこまで全て、カッコいい役者がカッコよく見えるようなアングルとスピードで、
魅せる、のである。
武士として、かっこいいのだ。
黒澤明の描く戦いはその正反対だ。
傍目から観れば二人の男がじゃれあってるようにも見えるし、
なんでここで決めてくれないのよ、という決定的瞬間さえ逃すし、
汗だくで泥仕合そのもの。
最後、追い詰められた男が殺される直前に言い放つ言葉は、
「し、、死にたくない」
である。
これは普通の時代劇であれば、
「早く斬れ!」か
相手の刀を奪って自害するか、
どちらかだろう。
死にたくない、という台詞は、武士同士の決闘の中ではご法度と言ってもいい。
死にたくない、という後ろ向き精神で闘っていると、必ず死ぬ。
それが時代劇の描く武士道である。
まぁ平安時代に武士道があるはずもないのだが。。。
武士道という考え方が日本に存在するというだけで、
刀を持った決闘シーンがかっこよく描写されるのは
なんとなく腑に落ちないなと、
羅生門の決闘シーンを見て思わず感じてしまった。
本当は敵を前にして闘って、誰しもが死にたくないと思うのは当たり前であり、
相手を殺さなければ生き残れないという極限状態で、必死なのである。
殺し合いをしているのにも関わらず、お互いに
「生きたい」と思っている矛盾。
斬りあいシーンには本当はそれが描かれていてもいいはずなのだ。
斬捨てるだけが、殺陣ではない。
黒澤映画はまだたくさんは観ていないが、
極限状態における人間の姿が丁寧に描写されていると感じる。
よく画の綺麗さが取り上げられるけれど、
わたしはこういうドラマの部分でもこだわりを追求しているような気がしてならない。
そして羅生門の最初の言葉に通ずる精神が必ずある。
「人を信じられなくなることほど、怖いものはない」
結局はこの言葉を投げかけたいんだろうと思う。
そういうヒューマニズムが、黒澤作品の中には流れている。
わたしはそう思う。