2006年07月16日

「ノスタルジア」

ノスタルジア=郷愁。

今日、映画を観ました。
内容は哲学的で、画は絵画的。
理解度は高くないと思うけれど、
今の時点で感じたことは残しておきたいと思うので、
レビューを書きます。

タイトル:ノスタルジア
監督:アンドレイ・タルコフスキー

大まかなストーリーを言えば、
元ロシア人の詩人が、同郷の音楽家の軌跡を辿っている途中、
イタリアで、エキセントリックなイタリア人に出会い、
何かを感化されるという内容。

いつも映画のレビューを書いていて思うことだが、
2時間の映像がたった数行にまとめてしまえることが、
実に悔しい。
小説も然りではあるが。
言い表せることの限界を感じつつ、
いつものようにシーンごとに分析していく。

詩人と同行する、やはり元ロシア人の女通訳がいるのだが、
その女性が詩人に別れをつきつけるシーン。
実はその前のシーンからわたしはこうなることの予感はしていて、
「なるほど、こういう突き放し方をするのか・・・」
と思った。
通訳は、詩人のことを
「退屈な男だ」と言う。
では、退屈の反対はなにか。
通訳にとっては、詩人にたとえ妻子がいようとも、
肉体的な関係を望んでいたのではないかと思う。
冒頭の部分で、
ロシア詩人の詩集をイタリア語訳で読む通訳に、
「翻訳で詩を読もうとしても理解などできない、芸術もそうだ」と詩人は言った。
「ではどうしたら理解ができるのか」と問われれば、
「国境をなくしてしまえばいい」
と返した。

わたしはこの部分にすべてが集約されていると思っていて、
このシーンは後々まで自分の中で引きずった。
今もそうだ。

国境をなくしてしまえばいいと言い放っても、
国境はなくせない。
国という考え方がある限り、
国土の境界線はなくならない。
それを分かった上で、詩人はあえて乱暴な解決策を言ったのだ。

それならば、彼女が思うことはなにか。
絶対に分かり合えない男と女との間に存在している境界をなくしたい、
自分たちの間に存在している溝は埋まらないのかと発想を転換しても、
おかしくはない。
(女という生き物は往々にしてそういう部分を持っているとわたしは思う)

とはいえ、その後のシーンで、
詩人はイタリア人のような(?)口説き文句を言っておきながら、
通訳を抱こうとはしない。
そのときの通訳の表情の移り変わりが、わたしには忘れられない。

退屈というのがさっき書いた理由だけとは、わたしは思っていない。

イタリアで出会うドメニコという、いわゆる「狂人」とであった時、
詩人はドメニコに興味を持ちながら、自分から彼の世界へ入っていこうとはしない。
通訳を通じて、パイプを作ってから入ろうとする。
「国境はなくしてしまえばいい」と言っていた人が、である。

終末思想を狂信して、家族を守るために家に閉じ込めたという過去のあるその男。
彼がどんな世界で生きているのかを知るには、
自分から彼の世界に入ってみるしかない。

なかなか入っていこうとしない詩人に業を煮やして、
通訳は、後はご勝手にと去ってしまうのだ。
ここはわたしもちょっと苛ついて、
「なんと優柔不断な!!さっさと行きなされ」
と叫んでいた場面でもある。

でもこの場面も少し前までの自分なら痛いほど通ずるところはあったはずである。
他人の世界、そして自分の知らない世界に、
自分から入っていくのは勇気がいる。
危険も伴う。
それは時に軌跡を辿ることだけには留まらない。
そこで体感しないと得られないこともある。

つまり、追体験である。
そして、詩人はその男との出会いによって、
初めて自分の世界とは違う世界を、追体験していくのである。

この映画には、詩人が男の追体験をするシーンが2つほどある。
一つは男の家にある、水の流れる部屋である。
ここは男の脳内の世界を表したような場所である。
男に言わせれば、
「タバコを吸うよりも、価値のある」部屋に行ったあと、
詩人はどこかの泉で詩集を燃やしながら瞑想をする。
自分の中の何がしかの死を象徴したようなシーンだ。

もう一つは、ろうそくを持って温泉の上を歩くシーン。
「これを成し遂げれば世界が変わる」と男は言い、
わたしは狂人といわれ、近づくことができないから、代わりにやってくれと言う。
わたしはこれを聞いたとき、
バカな、と思った。
たしか、理科の授業で硫黄を燃やしたらやばいって習ったような気がする。
なにがやばかったのか覚えてないが、
燃やしてはならんという話を聞いた覚えがあった。
温泉には硫黄が含まれている。
硫黄の含まれた空気に火をつければ、化学反応が起こる。
(家で調べたら有毒ガスが出ると書いてあった)
それによって、詩人の身体にとっては良くないことが起こるんじゃないかと考えた。

最後まで行き着いた時に、案の定、詩人は倒れこんで、
その後生きているのかは分からない。
息絶えたのかもしれない。

その間、例の男もまるで三島由紀夫のような大演説の後、
焼身自殺をしていることから考えても、
温泉の上をろうそくを燃やしながら歩くことを進めたことは、
直接的ではないにせよ、死に結びつく自殺行為の誘発ではないかとも思う。
単なる追体験以上の出来事である。

映画自体はここでエンディングを迎えるのだが、
全体的なテーマに関することを言えば、
やはり最初の「国境をなくす」という台詞を、
各シーンのモチーフにしていることは確かだろうと思う。

国境をなくす=融合する。
ということであり、自分と他人が溶け合うことにつながる。

詩人は少し前のわたしに似たところがある。
どことなく生きる気力も感じず(これは詩人の健康上の問題からも来るのだが)、
他人がせっかく自分の世界に入ろうとしているのに、
自分からは開こうとしない。
そして他人の世界に、危険を冒してまで入ってみようとは思わない。

その詩人が一体どこで自分と他人の間にある国境を自ら破棄したのか。

それは、狂人と呼ばれた男の家に入り、鏡を見た瞬間であるとわたしは思う。
そのシーンでは、ベートーベン「第九交響曲」の合唱がBGMとして使われていた。
しかも、誰もが知っている有名なあのメロディの前に、
実に厳かに歌われているマイナーな部分だ。
歌詞の内容としては、
「神への感謝。そして人間愛への目覚め」につながる部分でもある。
(ここで説明しておきたいが、第九は人間愛の曲である)

第九を実際に弾き、歌詞の内容も含めてじっくり演奏した、前回の第九コンサート。
あの時、自分で弾いておきながら一番シビれていたのは、
他でもない、この合唱の部分だった。
(バイオリンは弾くところが少なくて実は合唱をじっくり聴ける、という裏話もある)
だから、5秒くらい聴いただけで、
「第九だ!!!」といきなり声を発した。
それくらい嬉しかったのだ。

このシーンで、この部分を使っちゃうんだ、この監督。
わたし、シビれました。
と言いたい。

話が横にそれたが、この場面があったからこそ、
詩人は男の世界観を体験することを決意したと、わたしは考えている。

国境はなくなった。
でも、通訳との間の国境は、
通訳によって復活されてしまった。

この辺りに、人間関係における国境破棄の難しさがある。
むしろここでハッピーな展開にしてくれなくて良かったとも思う。

そろそろ話のまとまりをつける。

あえてこの映画のテーマを自分なりに言うとすれば、
「国境の存在」であるとわたしは思っていて、
国境があるからこそ、国境の向こう側に思いをはせることもできるし、
国境があるからこそ、ノスタルジアは生まれる。
国境がある限り、ノスタルジアはなくならない。
ノスタルジアのために、人を殺した家政婦のエピソードが映画内で出てきたが、
ノスタルジアというのは、「今」と「この地」から離れられないからこそ、生まれ出る。
ノスタルジアは、「今」と「この地」に感じる違和感と切っても切り離せない。

その理由は、
「左右対称」の完璧に近い画面構図にある。
佐藤雅ぴこの授業で、
「完全なる左右対称は気味の悪さを演出する」
という法則が出てきて、大変共感した覚えがあるが、
実際の世界で、ここまで左右対称の建造物に囲まれることはない。
自然物は左右非対称であるのに、
この映画の世界では、その世界のほとんどが左右対称で構成されている。

そしてその多くは、人間が求めた美しい比で造られた人工物である。

左右対称は、主観的には落ち着くが、
客観的に見つめると実に違和感のある空間に思える。
映画に登場する主要な人物たちは、
常に、現状に違和感を持ち、
ある者は現状に別れを告げ、新たな世界へと出発し、
ある者は現状に絶望して、命を絶つ。

完璧なまでの左右対称の構図は、
彼らの感じている違和感を代弁しているとも取れる。

監督が意図していたこととどれだけ近くまで掘り下げたのかは分からないが、
わたしなりに深く読み取るとすれば、こういう解釈になる。

今ここに書いた以上にもっと深い世界が広がる映画だと思っていて、
ぜひもう一度じっくり観てみたいとも思う。
映画はやはり2度3度見返すと、その世界観をある程度は深められる。
(実際、「暗殺の森」は既に10回以上観ている)

久々に深く考える映画を観たので、
書ききって満足。

明日は、羅生門(黒澤明監督)を観る予定。

Posted by fre9 at 2006年07月16日 01:28
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