観ました。
この映画はずっと観たいと思っていた。
5月の末から願い続けて、とうとう今日叶ったわけです。
なぜ、観たかったのか。
もちろん、最近の関心事、「ヨコハマ・メリー」に関連する地域が
当時の様子そのままに登場するからです。
根岸屋が健在だったころ、ここで撮影もしたそうで、
そのシーンはクライマックスに登場しました。
あぁ、わたしが生まれるずっと前は横浜ってこんなだったんだ。
わたしの母は東京、母方の先祖は長野。
父は静岡、父方の先祖は知らない。
横浜で生まれただけで、
1980年代からしかしらない横浜だけど、
戦後から高度成長期に入る少し手前までの横浜の様子を観たら、
また居ても立ってもいられなくなってしまった。
わたしのルーツ探しとかじゃない。
ハマっ子のルーツ?そんなもの始めからない。
ただ、わたしがこの映画から感じたものは遥かに巨大なエネルギーであって、
今ここできちんと言葉として表せる自信はないのだが、
一応まとめてみようと思う。
ぶっちゃけ、この映画の冒頭部分はつまんなかった。
よくある企業の重役たちの覇権争い。
おまけにフィルムが古いせいもあって、台詞は聞き取れない。
とはいえ何を言ってるかだいたいわかるくらい、筋書きは簡単。
主人公の男を、他の重役たちが「締め出す」わけである。
とはいえ、その後、ストーリーは大きな展開を見せる。
彼の運転手の子供が誘拐された。
それは彼の子供と間違えて、身代わりになってしまった格好だった。
男はその時自分の全財産を抵当に入れて、
会社を乗っ取る資金を調達しているところだったため、
身代金要求にはさいしょまったく応じなかった。
それを奥さんや周りの人たちが説得していったり、
元側近が、男を対立派に売ってみたり、
警察官が異常な正義漢になっていたり、
いろいろな人間が登場した。
そう、この映画は「人間」をあますことなく描いたものである。
タイトルの天国と地獄というのはそれを表現するためのツールにすぎない。
ただ具象化に使われただけの、道具である。
黒澤明という人のすごいと思うところは、
人間を描くために徹底した完璧主義を持ち合わせているところだ。
まず撮影時の構図も計算している。
あの小さい画面の中で、
人間と一瞬止める瞬間と、ひたすら動かせる瞬間を使い分け、
静と動の人間の心理を表現している。
一見無駄だと思える動きでも、画面のためなら入れる。
そういう徹底性がある。
これは絵画においてはセザンヌがそうだったと思うが、
構図と描きたい対象の完璧さを追求するために、
あえて自然をいじる場合がある。
黒澤明は意識的にそれをやり、しかも不自然さを残さない。
それからわたしがショックだったのは、計算されたストーリーテリングである。
この話は犯人を捕まえ、死刑にするという点で
勧善懲悪の話であり、
よくある2時間ドラマとそういうテーマのところで違うことはない。
とはいえ、話の筋立てはまったく違う。
古畑任三郎は一番初めに犯人をばらしてしまう方法をとるが、
普通はたいてい何の気なしに登場した意外な人が犯人だったりする。
ところがこの映画の場合、
犯人は半分ほど過ぎたあたりに急に明らかに犯人として登場する。
そして彼の登場シーンは、最後の最後まで、
音声なし、なのである。
観客は彼が犯人だということを一目で理解する。
そして彼が捕まることを期待する。
だが、一体誰が彼の逮捕までの過程を想像しただろうか。
黒澤明はこの過程をしつこいぐらい細かく描いている。
そして紛れもなくこのラストに向けたクライマックスの30〜40分間に、
イセザキモール、根岸屋、黄金町のあたりが登場するのだ。
このシーンは今でさえ衝撃的ではあるが、
映画公開時はさほどびっくりする人はいなかったのかもしれない。
とはいえ、頭脳的完全犯罪を目論む犯人が、
自分をカムフラージュしながらその殺人計画を詰めていくかの過程を
社会の暗の部分と、人間の暗の部分を絡めて説明していくストーリー展開に、
わたしは頭を殴られたような気持ちになった。
魂を揺さぶられるというのは、こういうことなのかもしれない。
わたしは、主人公の男の身分が天国だとも思わないし、
黄金町で体を売って生きる女たちや、
ヘロイン中毒の禁断症状で苦しむ意識不明の人物の置かれた環境を、
地獄だとも受け取ってない。
黒澤明は、確かにこの対極的な人物たちを二つに分け、
片方を天国と位置づけ、もう片方を地獄と位置づけているが、
ほんとうはそうは思っていないだろうと思う。
それは両方の環境において、
あくまで彼が描こうとしているのは「生きようとする人間たち」だからである。
以前、人から伝わってくるオーラについて言及したが、
彼らからはもの凄い温度のエネルギーを感じた気がする。
死にかけている人のもがき苦しむ鬼のような形相の向こう側には、
それでもまだ死ねない、生きるしかない苦しみと、
苦しみから脱却した後の生活への強い希望が感じられる。
(たとえそれが禁断症状からの脱却という不のループだとしても。)
なぜなら、
ほんとうに死にたい人間は、
苦しみから逃れた後の自分に希望など見出せないからだ。
逮捕され、独房に入れられた犯人が最後に言い放つ、
「わたしは別に死刑なんて怖くなんかないんですよ」
というこの一言。
俳優の演技も迫真の演技なのだが、
この言葉一つ取ってみても、
もろさを硬い殻で守ろうとする人間の小さな防衛本能が感じられる。
震える身体をさらしてもなお強がり続ける犯人は、
最後結局発狂したような声を上げて引きずられて去っていく。
このたった5分足らずのシーンにおいても、
殺されるという事実を前にした人間は、
しょせん薄いガラスのような心臓しか持ち合わせていないことを表している。
そこにいくら救いの手を差し伸べようとしても、それは無駄なあがきである。
そんなオブラートに包むことはやめて、
むしろ自分が死に直面しているという事実や、自分への侮辱をきっちり話してくれ。
犯人はこう言い残して、いなくなった。
わたしはこの映画を観て、
自分に足りない能力や考え方を、
衝撃を受けたあの瞬間に吸い込めた気がしている。
魂を揺さぶるためには、
やはり極限状況における人間の姿を描くことが重要となってくる。
それはありとあらゆる感情がそこに集約されるからだ。
わたしは、人間について語りたいと常日頃思っていたのだが、
その一番エモーショナルな部分に関して
わたしが未だに至っていないことを痛感した。
それは自分の感情を爆発させるようなことがないからかもしれないし、
感情を作品として出すことをあまりしていないからかもしれない。
いずれにしても、わたしは黒澤明という監督によって、
さらに揺さぶられ、刺激を受けた。
これを肝に据えて、
これからもがんばっていこうと思う。
「天国と地獄」映画レポート終了